2013年 09月 07日
映画『The Damned』。鉄鋼王エッセンベック家の一室。経営者の座を狙うフリードリヒに、彼の競争相手で民主主義者でもあるヘルベルトの逮捕を告げるアッシェンバッハ親衛隊中隊指揮官。薄笑を浮かべるフリードリヒ。「罪状は?」と問う愛人のゾフィー。答えるアッシェンバッハの言葉。「形式は必要ない。実質を見ればいいのだ。その実質とは──」 近代国家は中性国家を特色とする。それは国家が純粋に「形式」的な法の執行により統治を行なう一方で、道徳など「実質」的な価値判断を個人の良心に委ねて、これに不介入であることを指す。その法は個々人の目的に中立で、それだけ統治は限定的である。こうして国家は私的領域の手前で立ち止まり、個人の自由は保障される。 ところが「形式」的な法の執行を恩恵とするのは富を持つ者であって、持たざる者に取ってその自由は餓死への自由だと叫びを上げたのが社会主義者である。彼らの主張によれば、人は生活を保障されて始めて自由なのであり、そのために国家は道徳など「実質」的な価値を実現しながら私的領域に介入すべきとされる。 国家社会主義ドイツ労働者党が政権を掌握したドイツも、こうした国家の一つであった。そこでは「代表と多数決は真の民意ではない」「国家と国民の関係は投票のような機械的で冷たいつながりではなく有機的で情緒的な結合である」といった言説が盛んに述べられた。そして頂点には「形式」への憎悪に燃えるヒットラーが在った。 歴史の過渡期には人々が自己を盛り切れなくなった「形式」を捨て、より適合した「形式」を造り出すが、それすら満足できなくなると人々は「形式」それ自体に反逆し、自己を直接無媒介に表出しようとする。これが現代である。ナチズムはこの病理を文明以前の自然──血と土への復帰で凝集しようとした。それは全く新しいドイツの神話であった。 再びアッシェンバッハ親衛隊中隊指揮官の言葉。「その実質とは──議事堂が焼けると同時に、古いドイツ人を灰にすることだ。」家族の階層秩序、議会、法的な手続、国家と私的領域の境界、こうした「形式」から解放された人々は、次々とアッシェンバッハの言葉に誘われ剥き出しの権力へと吸い寄せられてゆく。ルキノ・ヴィスコンティ1969年の作品。 #
by hishikai
| 2013-09-07 21:31
| 憲法・政治哲学
2011年 03月 29日
本棚に一冊のフォークソング譜面集がある。中学生のとき、ギターに夢中だった私に、叔父が呉れたもので、知らない曲ばかりだったが、何度も繰返して譜を読んでいるうちに、とうとうページがばらばらになってしまった。 中でも好きだったのは、あがた森魚さんの『赤色エレジー』で、本物を聴いたことがないので想像で弾き、そのたびに陶然としていたが、それでもいつか本物を聴きたいと思いながらも、叶うことなく、そのまま何十年が過ぎた。 週末の寒い晩、古い喫茶店の一室。私は、木の椅子を並べて設えた演奏会場の一番前の席に座っていた。やがて後ろの扉付近で拍手が起こり、ギターを弾きながら歌う声が聴こえ、それがゆっくりと近づいて来て、目の前で止まった。 あがた森魚さんだ。細身の人で、灰色の中折帽子に黒縁の眼鏡をかけ、あとは上着もシャツもズボンも靴も黒尽くめの、その人がギターを弾きながら、少しだけ体を左に曲げて、眉間に皺を寄せ、眼を瞑って苦しそうに歌っている。 甘い声だ。それは、詩人に取り憑いたナイーブでセンチメンタルな少年の霊が、身悶えする詩人の口の中から歌っているという様態で、高揚して更に身悶えし、狂気を孕み、また正気を取り戻して沈滞する。 『赤色エレジー』は想像よりも豊かで、暗黒的で── 母が死んでゆく病室の片隅で、譜面集を呉れた叔父がどうしようもなくしゃがみ込んでいる光景を思い出し、それからの何十年の事々も連れて思い出した。 あがた森魚さんの上着の右袖が、ギターの弾き過ぎで、擦れて破れている。日本のいろいろな土地をめぐり、幾つもの鉄橋や渓谷を渡り、暑い日も寒い日も、大きな会場や小さな会場で歌い続けた、彼の何十年を想った。 私は、私の何十年と、あがた森魚さんの何十年とが、この喫茶店で邂逅したように思えて、そして、目の前で歌っているあがた森魚さんは、あの頃の自分で、だからいっそ、あがた森魚さんを抱き締めてしまおうかと思った。 あなたの口からサヨナラは 言えないことと想ってた/愛は愛とて何になる 男一郎真とて/幸子の幸は何処にある 男一郎ままよとて/昭和余年は春も宵 桜吹雪けば情も舞う/さみしかったわどうしたの お母様の夢見たね/お布団も一つ欲しいよね いえいえこうして居られたら/裸電燈舞踏会 踊りし日々は走馬灯(あがた森魚『赤色エレジー』) #
by hishikai
| 2011-03-29 22:55
| 文化
2011年 03月 23日
奥州は白河の関より入る。古来より、黄金と名馬を朝廷に献じたが、都の人々にとっては、それよりも、伝説と歌枕とによって、内側からぼんやりと照らし出されるように知られた、遠く謎の多い土地であった。 平安朝も中ごろ、摂津の国は古曽部という村に、能因法師という歌人があった。かねてより奥州に憧れ、わが杖ひく姿を夢想していたが、遠い辺地に漂白する勇気なく、ただ夢想に明け暮れ日々を送っていたところ、ふと夢想が彼に一首の歌を詠ませた。 「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」 口ずさんでみると我ながら名作に思われたが、憧れた奥州で詠まないことが口惜しく、行きもせぬ白河の関に行ったことにして家に籠り、顔を陽に焼いて黒くした後、奥州へ修行の次いでに詠んだと云って仲間に披露した。 やや後に、竹田太夫国行という人が、奥州下向の途中、白河の関で装束をあらため晴れ着となった。その理由を問うた人に答えて、能因法師の詠まれた関を、普段着で越えることは憚られると云った。 そして六百年の月日が流れた元禄の初め、白河の関に松尾芭蕉と弟子の曽良の姿があった。春立てる霞の空に奥州を旅してみたくなり、江戸を立ってひと月、ようやく今その関門に辿り着いたところであった。 関の辺りは、四月の暖かい日射しの下に真っ白な卯の花が一面に咲き誇り、二つの影が、あたかも雪の上に映えたように滑りながら、二人の旅人の後を追った。曽良が装束をあらためる心で一句を詠んだ。 「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」 それから芭蕉は松島を訪れたが、句を詠まなかった。ただ島々を眺めて佇み、浜を歩き、やがて海にのぼった月を仰いで、こうした天の業は、どのように筆をふるい、言葉を尽くしても及ばないと日記に書いた。 写真 白河関跡 歌枕の宝庫である奥州の関門。念珠ケ関、勿来関と共に奥羽三関と呼ばれる。 #
by hishikai
| 2011-03-23 14:00
| 文学
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