2009年 04月 27日
江戸の遊びと明治の遊び
e0130549_11305299.jpg昭和十年『なごりの夢』で幕末の実景を語った今泉みねの生家は、代々蘭方医として幕府に仕える桂川家であった。みねの父桂川家七代甫周(ほしゅう)は文政九年(1826)に生まれ、21才で十四代将軍家慶の奧医師となっている。みねの語るところによれば、甫周は役者のような風貌で、重々しい中にも粋な素養を持ち、香を焚き染めた着物をぞろっと着る「まるで婦人のような」人物であった。

住まいは現在の東京都中央区築地七丁目付近の千二百坪の敷地内にあり、そこに成島柳北、柳川春三、宇都宮三郎、神田孝平、箕作秋坪、福沢諭吉といった当時の新知識人達が集い、芸妓を招き端唄を唄い、桜の下に舟を浮かべて詩歌に耽り、月を眺め雪を愛で、ときには彼らが天麩羅を揚げて芸妓をもてなし遊んだという。

しかし明治になると遊びは一変し『東洋百華美人伝』が伝えるところによると、ある晩、長刀美服の高官達が料亭に芸妓を招いて宴を催した時のこと、詩の高吟や剣舞の披露が終ると裸相撲が提案され、芸妓達が戸惑っていると、やおら一人の高官が立上がり真剣を床柱に斬り込んだので、芸妓達はやむを得ず裸で相撲をとる。

高官達はこれに喜び、起って畳七八枚を重ねてこの上に座り、大杯で酒を飲み、勝った者には四五両より七八両を与えた。この乱痴気騒ぎが終り、料亭の主人が彼らを舟で送ったところ、彼らの中に木戸孝允や大久保利通など名士の含まれていたことが判ったという。

これは薩長武士が田舎者であるばかりでなく、明治という時代が価値の正統を立身出世主義に置いたことによる。立身出世主義は社会を自身の成功が試される公器と看做す思想で、その禁欲と解放を表裏とする構造が、実生活での昼の精勤と夜の放埒に対応し、これが「遊び」を「憂晴らし」へと転落させる仕組となっている。

幕末までの遊びが洗練された型へ欲望を飼い馴らしていく行為であるとすれば、明治の遊びは既存の型を破壊し欲望を開放していく行為である。前者は社会生活より上位に優越して廃滅し、後者は社会生活より下位に陋劣して存続した。これが時として社会的制約を逸脱して憚らない現在の「レジャー」の原型となっている。

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by hishikai | 2009-04-27 11:32 | 文化


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