2009年 05月 03日
「一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるがごとし」と福沢諭吉は『文明論之概略』に記した。福沢諭吉は実学を尊び開明の精神を説いた人として知られ、それだけに旧時代のわだかまりとは無縁のままに生きた印象があるが、この言葉からは、彼の歴史にもやはり苦い経験のあったことが判る。 それは福沢諭吉一人のみならず、維新の変革とそれにひきつづく急激な価値の転換により、歴史の表舞台が容赦なく場面を換え、これに順応できず、あるいは順応することを潔よしとしなかった人々の、世の中の奈落へと落ちてゆく無念の心までをも云い表しているように思える。 英語や蘭語の小唄が宴席を賑わせ、隅田川から直接に舟で乗り付けてくる芸者達のまなかいには薔薇の花壇を巡らせた洋館があるという、江戸と西洋が交錯して奇妙に光り輝いた桂川サロンは、それでも福沢諭吉を始め、朝野新聞社長の成島柳北、我国化学工業の基礎を築いた宇都宮三郎など明治の成功者を輩出した。 その中で福沢の言葉を身に沁みて聞いたのは桂川サロンの主人、元将軍家奥医師桂川甫周その人であったかも知れない。明治維新の後、甫周は築地の千二百坪の敷地と屋敷を新政府に没収され、本所割下水辺の六畳一間きりの家に住んだ。娘のみねは、眠れぬ夜に有為変転の世をじっと考え続けていた父の姿を思い出すという。 あるいは将軍の小姓役を努めた石川右近は白無垢の礼装で物乞いをした。慶応三年(1867)からパリに滞在して徳川幕府への大規模な借款を交渉しながら、幕府瓦解で空しく帰国し、榎本艦隊への合流も拒絶して帰農した栗本鋤雲は、この話を聞いて「石川右近に先鞭を着けられた、いまいましい」と膝を叩いて叫んだ。 このような精神の形相は、例えば平和主義から戦前を批判する体の歴史からは到底理解できない。敗戦後のことにしてもそうだが、私達は歴史を実用に供し過ぎたか、さもなければ実用に使えぬ歴史に無関心であり過ぎた。そうして、ただ人の心を丹念に追ってゆくだけの歴史を考えなかった。
by hishikai
| 2009-05-03 23:36
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