2009年 05月 06日
小説の実用を信じた時代
e0130549_035587.jpg明治三年(1870)浅草の寝釈迦堂近くの長屋に住んでいた江戸の戯作者、仮名垣魯文は新しい明治の世に相応しい工夫はないかと、街の本屋に種本を漁って福沢諭吉の『世界国尽』を捜し出した。彼はこれをもとにして、弥次郎兵衛と喜太八がロンドンへ渡航する『西洋道中膝栗毛』を書上げた。それはこんな調子だった。

「僕はこれほど葡萄牙(ホルトガル)。君はいつでも仏蘭西(フランス)か。浮世の希臘(ギリシヤ)と只印度(インド)、床を土耳其(トルコ)のひとつ夜着。埃及(エジプト)こちらへ寄らしやんせ。支那(チャイナ)支那と取りすがり。魯西亜(オロシヤ)の見える恋のみち、ハアトツチリトン⋯」

明治四年(1871)中村敬宇は『西国立志編』を発表した。これはS・スマイルズの『セルフヘルプ』の邦訳で、人間は忍耐し努力すれば出世すると説いて多くの読者を得た。その第十一編二十四にはこうあった。「稗官小説は人の戯笑に供し、その心志を蕩散するものにして、教養の事を汚すこと、これより甚だしきはなし」

稗官(はいかん)は民間の風聞を集めて王に奏上した古代中国の下級役人で、その風聞を稗史(はいし)と云う。明治の頃に稗官小説や稗史の語を用いるとき、そこには品下った低俗小説というニュアンスが込められていた。高級な文学は漢文調で政治を論じ、実用に資するものというのが当時の一般的な認識であった。

明治十四年(1881)東京大学の学生だった坪内雄蔵は英文学の試験で『ハムレット』を道徳的に批評し、英国人教師ホートンから悪い評点を与えられた。坪内はその時、日本的な勧善懲悪と近代ヨーロッパ文学の人間観との間に大きな違いのあることに気付いた。それは誰も考えなかった問題だったので、彼は洋書に独り学んだ。

四年後の明治十八年(1885)坪内雄蔵は『當世書生気質』を発表した。その小説は江戸的な戯作でも漢文調の政治論でもなかった。写実的な描写と軽妙なユーモアに彩られた新しさは学生を中心に評判を呼んだ。そして彼は、その第十回の末尾にこう書いた。「小説を以て実用技と同視」するのは「実用専門家の妄言なり」

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by hishikai | 2009-05-06 00:46 | 文学


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