2009年 05月 11日
成島柳北
e0130549_1825237.jpg成島柳北と云って今日彼を知る人は余り多くないかも知れない。成島柳北は天保八年(1837)浅草御厩河岸の賜邸に成島稼堂の三男として生まれ、十八才で侍講見習いとして幕府に出仕、二十才で将軍家茂の侍講となる。当時新興の花街であった柳橋に遊び、その風俗を著わした『柳橋新誌』は彼の最も知られた著作である。

二十七才で幕閣を批判して侍講の職を解かれると洋学を学び始める。桂川甫周と知り合い桂川サロンに出入りする。二年後、新設された幕府陸軍の騎兵頭に登用されると鳥羽伏見以後は外国奉行、ついで会計副総裁に就任。明治元年(1868)江戸開城の前日に職を辞して以後は、新政府からの出仕の要請を謝絶する。

明治五年(1872)九月、柳北の姿は、横浜を出港するフランスの郵便船ゴダベリイ号の上にある。香港でマルセイユ行きの定期船メーコン号に乗換えて同年十一月、パリに到着。ブローニュの森を散策して「清幽愛す可きの地」と云い、レストランに食事をして「肴核(料理)頗る美なり」と云う。パリに沈溺する。

一月十五日、騎兵頭を努めた頃に軍事教官として寝食を共にしたシャノワヌ大尉と再会、彼の家を訪れる。その時、彼の書室には柳北の贈った日本刀と江戸名所図絵が置かれ、アルバムには柳北と妻の写真があった。「氏の旧情を忘れざる、真に感嘆に堪えたり。我が邦人にして故旧を視る、路人の如き者夥し」と日記に書く。

帰国した柳北は『柳橋新誌』第二編を刊行して新政府高官を揶揄する。例えば宴席で芸妓が、昔はお公家様も花札を作っていたのですかと公卿に尋ねると、公卿は、今は国政に忙しいからそんな事はしていないと答える。すると芸妓は「分かった、それで近頃は花札が高いのね」と云う。一同手に汗を握る、といった具合に。

明治八年(1875)公布された讒謗律と新聞紙条例を批判して投獄され『柳橋新誌』は発禁となる。そのとき柳北は巡回する看守の足音に酒楼の廊下を往来する芸妓を連想したという。成島柳北は福沢諭吉のような実学人の陰画であった。そして自ら陰画の人生を闊歩して、文明における陰画の価値を教えた。

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by hishikai | 2009-05-11 18:41 | 文学


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