2009年 05月 18日
善き民主主義体制に就いて
e0130549_1124291.jpg戦後一般に信じられた歴史に異を唱えることを執拗に嫌悪し、議論の最中にこちらがびっくりするほど怒るのは、大抵の場合、民主主義者を自認する人々で、そういう後でいつも考えさせられるのは、個別の論点についてではなく、何故あれほど感情的になって怒るのかということで、こればかりは未だによく解らない。

ただ感触として、彼らの考える社会には民主主義を守るとか、平和を守るとかいった目的があり、かつ市民にはそのために努力すべき任務が考えられているように思われ、そのことに対して私は先ず第一に違和感を覚える。というのは目的や任務を持った社会というものは、実のところ社会ではなく組織だからだ。

何か大変に進歩的であるように考えられている民主主義体制というものは、一旦それを組織と考えて、目的と任務を着眼点として眺めるならば、徳治主義的な世界の実現を目的として、人々に道徳規範の実践や職分を守ることを任務として定めた江戸時代の儒教的社会観と、その性質で何ら変わりがない。

これは会社でもそうだが、組織というものは構成員の役職や身分によって相応の応接が用意されているもので、このことは組織の中にあっては人間は常に何者かであることが求められることを意味している。つまり目的や任務に関係のないアカの他人はいないのであって、これは我国の善き民主主義体制もまた同じである。

ところがこの濃密な組織論は、近代でいうところの社会が、構成する人々全てをアカの他人として扱うという認識を欠いている。K・ポパーの表現を借用するならば、社会は「1からnまでそっけなく番号をつけられたn人の個人からなる集合」で、だからこそ互いの意見は対等なものとして脱道徳的に尊重されるのだ。

民主主義者が議論で見せるあの怒りは、善き組織に異を唱える不埒者への鉄槌であるのかも知れない。だが彼らが善き組織から善き結果が流れ出すと考えているならば、それほど簡単な話はないわけで、往々にして現実はそれを裏切る。そういう熱血は戦前と鏡写しになった同じ轍を踏んでいる。

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by hishikai | 2009-05-18 11:34 | 憲法・政治哲学


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