2009年 05月 20日
買い物としてのデモクラシー
e0130549_05065.jpg1万人の人々が自分の好きな車に投票することに合意する。どの車が勝とうと人々はその車を買わなければならない。そこで私は最良の車を見つけようと努力するが、結局報われない。私がどんな決定をしても、私の車はその集団の他のメンバーが私のために選んだものである。(自由のためのメカニズム/D・フリードマン)

デモクラシーとは、政治的リーダーが政治の生産者となり、投票者が政治の消費者となって、生産者が票の獲得競争を繰り広げ、より多くの票を得た生産者が政権の座に着くことを指す。それは政治的決定に到達する方法、決め方の決め方であると主張したのはJ・シュンペーターだった。

その考え方で良いと思う。デモクラシーの要諦は手続にある。しかし致し方のない事とはいえ、実につまらない買い物ではないか。私が(あるいは、あなたが)どの車を選んだとしても、結局のところそれはD・フリードマンの言う「その集団の他のメンバーが私のために選んだもの」でしかないのだ。

またその車にしたところで、走行テストの結果があるわけでも、ユーザーのクチコミがあるわけでも、専門誌による試乗評価があるわけでも、販売台数の伸びや価格の高下による市場のシグナルがあるわけでもない。そんな車の性能が良くなるわけがない。

おまけに公約を読んでいる時間もない。人間は情報の取得がコストに見合わない場合は、不完全な情報に甘んじるものだ。たとえ読んだとしても「速度・デザイン・燃費」か「デザイン・燃費・速度」か「燃費・速度・デザイン」か、その書かれた順序によって感じ方が違う。

そう、結局は感じ方なのだ。坑夫が何千人かかって、やっとの思いで掘り出したダイアモンドだって、砂漠ではコップ一杯の水に劣るかも知れない。「ああ、うまい」っていう砂漠での最期の一杯、その満足する「主観」が物の価値を決定する。そうして誰かが選んだ車に、私は自分と家族の未来を託すのだ。

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by hishikai | 2009-05-20 00:10 | 憲法・政治哲学


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