2009年 06月 09日
明治十四年(1881)五月、長谷川辰之助があれほど執拗にこだわった陸軍士官学校を諦め、東京外国語学校露語学科に入学した動機は「将来日本の深慮大患となるのはロシアに極まっている」(『予が半生の懺悔』)という志士気質で、それが日露戦争勃発の二十三年も前であることを考えれば先見ではある。 だが実際に辰之助がロシア語の授業に発見したのは、ロシア文学に於ける社会性という、謂わば小説という器が聖書や仏典に匹敵する思想を、感性に訴える描写によって盛ることができるという、当時の我国の文学状況からすれば驚くべき感覚であったが、それは同時に国家の必要としない感覚でもあった。 これは辰之助に終生つきまとう経済苦によっても知られる。というのは明治十九年(1886)に彼は矢野二郎校長の説得を振切って退校しており──矢野の鹿鳴館で福沢諭吉に野次を飛ばす凡俗が合わなかったであろう──いかに卓抜な感覚の発見者であろうとも、現実に国家の求めぬ中退者である以上生活の途は少ない。 そして辰之助の胸中に宿ったのは、世界の真理を探り出して衆人の世渡を助ける小説家であるべしという自負と、極東アジア情勢を俯瞰して変革を促す実践家であるべしという二重の自負で、このうち彼の人生に先ず訪れた小説家であるべしの自負が、処女作『浮雲』の発表となって現われる。 『浮雲』は世上の評判も高かったが、辰之助自身は「殆ど読むに堪へぬまでなり」と断じている。つまり二葉亭四迷(くたばって仕舞え!)である。次に訪れたのはアジア変革の実践者であるべしの自負で、それがウラジオ、ハルビン、北京への放浪となって現われる。しかしこの放浪も見るべき成果をあげない。 挫折した辰之助は、やがて自らにこう問いかけている「(私は)所謂物質文明は今世紀の人を支配する精神の発動だと、何故思れなかつたらう? 物質界と表裏して詩人や哲学者が顧みぬ精神界が別にあると、何故思れなかつたらう? 人間の意識の表面に浮だ別天地の精神界と違つて、此の精神界は着実で、有力で、吾々の生存に大関係があつて、政治家は即ち此精神界を相手に仕事をするものだと、何故思れなかつたらう?」(『平凡』)
by hishikai
| 2009-06-09 12:28
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