2009年 06月 12日
おとぎの国の倫理学(抄録)
おとぎの国では「法則」という言葉は使わない。ところが科学の国では、みんなこの言葉が特別お気に入りのようである。たとえば、今は死に絶えた昔々の人びとがアルファベットをどう発音していたか、面白い仮説を作って「グリムの法則」と呼んでいる。

しかし、グリムのおとぎ話のほうが、グリムの法則よりはよほど理屈として筋が通っている。お話のほうはともかくも話であるが、法則のほうは実は法則でも何でもない。いやしくも法則と言うからには、一般化ということの本質と、法則化ということの本質を正確に知っていなければならないはずである。

たとえばこれが、スリは牢屋に入れるべしという法律の場合なら、話はなるほどよくわかる。スリをするという観念と、牢屋に入るという観念との間には、なるほどある種の精神的関連のあることはわれわれにも理解できる。人の物を自由にする奴は、なるほど自由にはさせておけぬ道理である。

けれども、なぜ卵がヒヨコになるかというような問題になると話は少々変ってくる。この問題は、なぜ熊が王子に変ったかという問題と同じくらいむずかしい。純粋に観念として見るならば、卵とヒヨコの関係は熊と王子の関係よりもっと無関係である。卵にはヒヨコを連想させるものは皆無であるのにたいして、王子の中には熊を連想させる例もなくはないからだ。

さてそこで、ある種の変身というものが現に起こることは認めるとしても、大事なことは、おとぎの国の哲学的方法によってこの変身を見ることである。科学といわゆる自然法則の、まことに非哲学的方法によって見ることは断じて許されない。

では、なぜ卵は鳥になり果実は秋に落ちるのか。その答は、なぜシンデレラの鼠が馬になり、彼女のきらびやかな衣装が十二時に落ちるのか、その答とまったく同じである。魔法だからである。「法則」ではない。われわれにはその普遍的なきまりなど理解できないからである。必然ではない。

なるほど実際には必ず起るだろうと当てにはできるが、しかし絶対に起らねばならぬという保証はまったくないからである。普通はそういうことが起るからといって、それがハックスリーの言うような不変の法則の証明だということにならぬ。われわれはそれを当然のこととして当てにすることはできない。

われわれはそれに賭けているのである。おやつに食べるパンケーキには、いつ毒が入っていないともかぎらない。巨大な彗星がやって来て、いつ地球を粉々にしないともかぎらない。たとえその確率がどれほど小さくても、ともかくわれわれはいつでもその危険を冒して生きているのだ。

e0130549_1150986.jpgいつ奇蹟が起こって、当たり前のことが当たり前のことでなくならないとは誰にも断言できはしない。どんなに小さな確率でも、われわれがいつもその危険に賭けていることは変わらない。われわれが普段はそれを考えないで暮しているのは、それが奇蹟であり、したがって起こりえないことであるからではなくて、それが奇蹟であり、したがって例外にほかならないからなのである。

科学で使う用語はみな「法則」にしろ「必然」にしろ、「順序」にしろ「傾向」にしろ、すべて本当は意味をなさぬ。みな内的な連関、統一を前提にした言葉だが、われわれにはそういうものは本当に理解はできないからである。自然を説明する言葉として、私が納得できた言葉はたった一つしかない。おとぎ話で使う言葉だ。つまり「魔法」という言葉だけである。

(『正統とは何か』より「おとぎの国の倫理学」抄録/著:G.K.チェスタトン/訳:福田恆存 安西徹雄)

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by hishikai | 2009-06-12 14:46 | 資料


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