2009年 06月 25日
虚栄の果て
e0130549_1322043.jpg他人から大人物として扱われたい。そんな虚栄は往々にしてつまらない結末をもたらす。居丈高な態度で忠告をする、相手の肩を揺すって大笑いをする、憤然としてテーブルを叩く、そんなことをすれば折角の大人物も、周囲には危険人物と受取られかねない。ちょうど十九世紀末のドイツがそうであったように。

プロイセンを中心に統一されたドイツの成長は目覚しかった。イギリスと比較するならば、重工業は1890年代にすでに抜き去り、1900年代初頭のGNP成長率はその二倍であった。1871年に40万人だった常備軍は1914年には82万人に急増し、おまけに彼らの「ティルピッツ計画」は世界第二位の海軍力を目指していた。

e0130549_1324079.jpg皇帝の座についていたのは、ヴィルヘルム二世。癇癪持ちで片腕がよくきかず、強い劣等感に苛まれながらも、自分を神の代理人と信じ込んでいたこの威圧的な君主は、きびしい軍隊の訓練を受け、水泳や乗馬をはじめピアノの演奏まで習得していた。彼は独裁的であったが、臣民の心を強く惹き付けていた。

そして彼の対外政策もまた威圧的だった。1905年、彼はフランスがすでに足場を築いていたモロッコに乗り込み、その地域の独立を主張した。1908年にバルカン半島の緊張が高まると戦争をちらつかせて他国の介入を排除した。1911年にはモロッコのアガディール港に砲艦一隻を送り込んでフランスを威嚇し、これ以上の干渉をしないことを条件にフランス領コンゴの一部を手に入れた。

とはいえ彼、つまりヴィルヘルム二世は戦争を望んでいたわけではない。それは威嚇による不器用な和平工作であったといわれる。1900年からドイツの首相を努めたベルンハルト・フォン・ビューローはこう証言している。「彼の愛国的で威嚇的な演説は、外国人に対しフードリヒ大王かナポレオンの再来が、ここにいるという印象を与えたかっただけなのだ」

だが怯えたイギリスはフランスと、ついで1907年にロシアと同盟を結んだ。三国協商である。これは先に結ばれていたドイツ・オーストリア・イタリアによる三国同盟との決定的な対立を意味していた。イギリスの外務事務次官エア・クロウは、イギリスのこのような反応は自然法のようなものであると論じた。

平和で優雅で文明的な十九世紀末のヨーロッパは、しかしその地盤の深いところで、こうした融通の効かない二極構造へと徐々に変化していった。そして1914年、サラエボでのフェルディナント大公暗殺が二極構造のスイッチを押したとき、そのつまらない結末もまた、自然法のようにもたらされた。

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『ジャンヌ・ダルク』(主演 サラ・ベルナール)のポスター E.グラッセ 1893

by hishikai | 2009-06-25 13:07 | 第一次世界大戦


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