2009年 06月 27日
民族主義の勃興
e0130549_16472112.jpg平和だった二十世紀初頭のヨーロッパが、突如として第一次世界大戦を引き起したことについては、ヴィルヘルム二世の不器用な対外政策が要因ではあるが、かと言ってそれが全てではない。いかに彼が成長著しいドイツ帝国の皇帝であっても、個人の力で六カ国の列強からなるヨーロッパを世界戦争に引きずり込むことなどできはしない。

三国同盟と三国協商が対立した当時のヨーロッパがそうであったように、国際社会の二極構造は戦争勃発の可能性が最も高いとされる。しかしどこかの国家が妥協をすれば戦争を回避できる可能性もある。事実十九世紀末のヨーロッパは平和だったのだ。なぜ二十世紀初頭にそれができなかったのか。その要因には民族主義の勃興がある。

それまでのヨーロッパの国際政治システムは、例えば1698年に性的不能者であったスペインのカルロス二世の後継問題で、フランスのルイ十四世が自分の孫を、そしてオーストリアのレオポルト一世が自分の息子を各々候補者に挙げて争ったときに、イギリスやオランダが提示した調停案にその典型的な考え方が示されている。

そこにはスペイン王に第三者であるパイエルン選定候をつける代わりに、イタリア国内のスペイン領はフランスがナポリとシチリアを、オーストリアがミラノを各々分割して受取るという内容が記されてあった。つまり十七世紀には今日で言う意味の国民はなく、国家や領土はその時々の都合で分割される「もの」であった。

そして1815年のウィーン会議が、ナポレオンの征服と敗北の後始末としてヨーロッパの国境線を引き直した後でも、なおこの色彩は強く残り、諸王家の姻戚関係と妥協の積み重ねがヨーロッパの勢力均衡に貢献した。(もっとも1698年の調停は不調に終ったが)それが変化を始めるとき、そこに民族主義は登場する。

まずギリシャ独立戦争と、これによってヨーロッパ人の間に引き起された一大センセーションがある。やがて1830年代にはヨーロッパ各地で暴動の嵐が吹き荒れ──この結果として代表民主制を獲得したのはベルギーだけであったが──そのことが同一言語と平等の国政参与権による共同体、すなわち民族国家こそがヨーロッパ人の胸に深く抱かれた理想であることを、諸王家に対して示すこととなる。

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『メディア』(主演 サラ・ベルナール)のポスター A.ミュシャ 1898

by hishikai | 2009-06-27 16:49 | 第一次世界大戦


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