2009年 07月 04日
『天皇論』(小林よしのり著)を読んで思ったこと
書店に入って歴史や思想の棚を探したが見つからず、申し訳ないと思いつつ忙しそうに立ち働く店員さんに尋ねたところ「こちらでございます」と案内していただいた新書の棚にこの本はあった。裏表紙をめくってみると二〇〇九年六月九日第一刷発行とある。

なるほど、これでは見つかるはずがない。小林よしのりという人の言論をぼんやりと知りながら、しかし一冊の著書も読んだことのない私は、彼の『天皇論』と題する本を数年前に発行されたものだとばかり思っていた。こういう思い込みは年寄りになった証拠だ。

『天皇論』の執筆が『戦争論』などよりも後になった事情は、あとがきに「一般庶民に混じって『天皇陛下万歳!』を唱和することに躊躇したり」する自身のメンタリティーを打破しなければ、天皇を語る資格はないと自重してきたからと述べられてある。

つまり小林よしのりとしては、まず戦後日本を取り巻く状況への不満とそれへの言論闘争があり、そういう薮の中をかき分けながら歩んできた先に、天皇陛下のご存在を発見したということであろう。

そしてこのような思想形成の順序は、今の若い保守層もまた同じで、小林よしのり自身昭和二十八年の生まれでありながら、その順序を共有する辺りに彼の支持される理由があるのではないかと想像される。

とはいえ本書は内容も行き届き、戦後日本への反論を願う読者への知識の供給を目的とする、いわば実用問答集として組み立てられ、散見される過激なジェスチャーは、あたかも受験生を鼓舞する塾の講師の熱心さである。

しかし一方でこのような思想形成の順序は、本書もまたそうであるように「天皇はなぜ必要か」という実利的な組み立てを必然としており、したがってその天皇論の是非は各要点を巡る論戦の勝敗にかかってくるという、むき出しの構造をしている。

これは現在の教育など諸状況から致し方のないことかもしれないが、私がこれについて思うのは、国民の天皇陛下への尊崇の念の源泉をまず一つ定め、そこから派生するものが何であるかという、価値の主従を持たせた組み立てができないだろうかということである。

そうでなければ中国の易姓革命という善政主義を否定し「人格は天皇即位の資格ではない」(p177)とする信仰としての立場と、一方で「天皇はなぜ必要か」という実利的な立場とが、一つの天皇観の中に並立する等価な思考として、あたかも波と防波堤のように衝突してしまう。

これについて私は信仰としての立場を主にすべきと考える。天皇のたかみくらは絶対無二の信仰を基礎とする。善政の有無やご人格の善し悪し、制度的必要性ではない。信仰に全ての端緒を求め、その流れの中で思考しなければ私たちの天皇を巡る歴史は永遠に「あれは善いが、これは悪い」という解釈の森をさまよい歩くだけであろう。

そうして民族の神としての天皇を発見しておいてから、その次に立憲君主としての天皇、法の支配に服する国制としての天皇を別個に考えるならば近代日本の天皇像は整序される。

この点で小林よしのりが、例えば神風連や二二六事件という不合理と、天皇機関説への肯定(p253)という合理とを、陛下がどちらを支持されているかとは別に、彼の天皇論の中でどのように折り合いをつけていくのか、不合理と合理、信仰と実利のいずれを重く見るのか、少なくとも本書を読む限りは不明で、今後に課題を残しているように思われた。

追記

むしろ本書の最大の価値は、天皇と国民主権との矛盾に言及し、見直すべきは国民主権の方である(p260)と明確に主張している点にある。

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by hishikai | 2009-07-04 11:48 | 憲法・政治哲学


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