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2009年 07月 21日
あるイタリアの民族主義団体のシンボルが赤熱して炎を発する黒い木炭であることに象徴されるように、十九世紀ヨーロッパの人々の胸中で最も熱く輝いた理想は民族独立運動である。それは他国の君主による言語の異なる民族に対する支配を、人間の権利を侵害するいかなる行為にも劣らぬ犯罪だと考え、そのような体制への革命を夢見ることであった。その夢を実現したのは十九世紀も半ば、進歩の時代の開幕と共に理想主義者たちに代わって歴史の舞台に登場した現実主義者たちである。彼らこそが民族国家を成立させた真の担い手と言える。中でも一頭地を抜く存在が、イタリアのカミロ・デ・カブールと、ドイツのオットー・フォン・ビスマルクである。 ビスマルクは1815年にプロイセン王国の下級貴族の家に生まれる。背が高く、姿勢がよく、肩幅が広く、図抜けた体力と満々たる野心を持つ彼は「人道主義を振回す口先だけの連中」を軽蔑し、それに見合う慎重さと透徹した知性によって、地方官吏から下院議員、在外公使を歴任して着々とその地位を高めていく。 その頃のドイツは、フランスとロシアの二つの列強に挟まれた地域に在って、時として他国の君主を戴く三十九の小国から構成された連邦で、その実権を握っているのは二つの国家──新興で歴史の浅いホーヘンツォルレン家のプロイセン王国と、由緒正しく長い歴史を誇るハプスブルグ家のオーストリア帝国である。 1862年、プロイセンの首相に指名されたビスマルクは秘かに三つの目標を立てる。それは第一に連邦からオーストリアを追い出すこと、第二にプロイセンが連邦の実権を握ること、第三にベルリンをパリよりも高い地位に置くことである。そして言う「現今の問題を解決するのは多数決ではなく、血と鉄である」と。 彼は早速行動を始める。まず心中の敵と定めるオーストリアと同盟を結んで、デンマークが領有を主張する二つの公国を軍事占領すると、事前にオーストリアと約束した占領地の共同統治を無視して、軍港を始めとするインフラ建設を決定。緊張が高まったところで、今度はイタリアと同盟を結んでオーストリアに宣戦を布告。十八日後にオーストリア軍主力をケーニッヒグレーツの決戦で撃破して、オーストリアを連邦から追い出すと、1867年に北ドイツ連邦を結成してプロイセンを指導国とする。 次いで1870年、プロイセン王とフランス大使がスペインの王位継承問題で会見した時の電報を、あたかも両者が席上で互いに侮辱し合ったかのように改竄して新聞に発表。「これはガリアの雄牛に赤い布を振ったのと同じ効果がある」というビスマルクの言葉どおり、新興のプロイセンを抑えたいと望むフランスが宣戦を布告。二ヶ月後にフランス軍主力をセダンの決戦で撃破してナポレオン三世を監禁する。 そして1871年1月18日、太陽王ルイ十四世の愛したヴェルサイユ宮殿「鏡の間」に、ドイツ政官軍の代表者ら一千人余が居並び、プロイセン王ヴィルヘルム一世の初代ドイツ皇帝としての戴冠を内外に宣言。ここに史上初のドイツ民族による統一国家、ドイツ帝国が誕生する。日本では明治四年、廃藩置県の詔勅が公布される半年前のことである。 |
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