2009年 08月 06日
姜尚中を読む
e0130549_14164437.jpg姜尚中の『希望と絆』(副題:いま、日本を問う)には、概ね次のようなことが書かれている。現在日本の自殺者数は先進国でも抜きん出て多いが、人々はその事に無関心である。そこから分かるように、現在の人々は他人の痛手に目配りができないでいる。また、それについては韓国も同じような様相を呈している。

それはサッチャー政権からレーガン政権へと受け継がれ、日本では小泉政権、韓国ではIMF危機以降に押し進められた市場原理主義が社会を傷めたからである。社会とは「絆によって結びついた人々の支え合いの仕組み」である。人と人とが支え合わなければ、個人は生きることができない。

にもかかわらず、市場原理主義は公共部門を私的部門へ移転することで、この支え合いの仕組みを自由競争と自己責任へ置き換えてしまった。つまり国や公共部門が負担すべきリスクを個人に負担させ、結果として個人はその負担に耐えられなくなっているのである。

市場原理主義、さらに広く言えば、近代やグローバリゼーションというものは、おびただしい数の人々の犠牲の上に成立している。しかしそういうものは、もうやめなければいけない。そのためには「あまりにひどい」「かわいそうだ」という常識から、ものごとの正当性を改めて問い直さなければならない。

ということだが、このような姜尚中の主張は現在の多くの日本人が──その政治的立場を問わずに──共鳴するところではないかと思う。もっとも姜尚中自身は、大手マスコミが今でも市場原理主義擁護の言説を繰り返し、したがって自分の主張は少数意見であると考えているようだが、事実は正反対である。

いまや市場原理主義の排撃こそがマスコミを始めとして、自民党から民主党、保守から革新、キリスト教徒から仏教徒、犬から猫まで、日本全国に生きるあらゆる生命体の脳裏を占める主要な言論テーマである。それは要するに、社会を「支え合いの仕組み」と見るか、見ないかということで、明治以来の日本人がずっと格闘してきた問題に他ならない。

だが、この問題に向かい合う時に「市場原理主義」などという在りもしないイデオロギーを考えても答えは出ない。考えるべきは、社会を「支え合いの仕組み」と〈見ない〉近代国家というものと交わり、また自らも近代国家を受け入れながら、しかし一方で社会を「支え合いの仕組み」と〈見たい〉日本人の(あるいはアジア人の)内心の葛藤についてなのだ。西洋仕立ての背広は着心地が悪くて仕方がない、さりとて現実としては他に着るものがない、そのことへの子供のような「むずがり」に自覚的であるか否かなのだ。

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by hishikai | 2009-08-06 14:18 | 憲法・政治哲学


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