2009年 08月 10日
社会について
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私が、一九七九年に留学先のドイツからイギリスのボーンマスを訪ねたのは、ちょうど保守党のマーガレット・サッチャーが労働党から政権を奪還したときのことでした。彼女の有名な言葉に、「社会というものは存在しない。存在するのは個人だけだ」というものがあります。当時、私はそれを聞いて、とても違和感を覚えましたし、強い反発心が起きました。(姜尚中 著/『希望と絆』より)

社会というものは存在しないという言い方が、日常の感覚に照らして違和感のあることは分かる。しかしM・サッチャーの言葉が自由主義思想の理解の上に成り立っているとすれば、その意味するところは概念や意識の産物を客観的に存在する実体であるかのように考えることへの警鐘である。

近頃よく耳にする「社会全体が子供を育てる」という言葉にしても、この「社会」が具体的には物体でも精神でもなく、かといって事務局や窓口を持った組織でもないことは明白である。また補助金による育児支援にしても実像は政府による富の再分配で、実体として存在する社会が意思を持って育児を引き受けてくれるわけではない。

だからと言って社会が全く無いというのでもないが、しかしながら、それは個人が千差万別の目的や価値観に従って行動する結果として浮かび上がる秩序の全体を指す概念としてあるのみである。それは実体として存在する個人という無数の点が描き出すパターンである。それら個人の行動は理性で特徴づけられるのではなく、慣習により特徴づけられている。

例えば今、私は朝の散歩をしている。向こうから来た人が「おはようございます」と挨拶をすれば、私は「おはようございます」と答える。しかし、私は「おはようございます」の根拠を知らない。何時、誰が、どのような理由で始めたのかも知らない。ただ私が知っているのは、昔から伝えられてきたやり方のみである。私の行動は慣習に特徴づけられている。

この根拠を問うことなくやり方だけを知っている慣習に特徴づけられた個人が、千差万別の目的や価値観に従って行動する、その結果として浮かび上がるパターンであるところの社会。それは自然による発生ではなく、人為による設計でもない。人間的でもなければ非人間的でもない。当然のことながら「支え合いの仕組み」などという単純なものでもない。

そのような社会に政府が特定の目的を実現するためのデザインをもって介入すれば、必ずその企図から漏れる領域が生じる。ならばと新たなデザインをもって再び介入すれば、再び企図から漏れる領域が生じる。ならばと新たなデザインを……と介入は無限の連鎖となって当初の意図から大きく逸脱する。これら一連の事柄について、ある論者は次のように言う。
われわれは社会の存在を信じ込まされてきた。社会は生きているものとして、あるいはむしろ活発に活動しているものとして示されてきた。社会と個人の関係は全体と部分の関係であり、社会は一定の目的に従って行動する存在物、しかも個人が自身の特定利益を犠牲にしなければならない存在物として示されてきた。近代のわけのわからない政治用語はこれらの迷信を反映している。(P・ルミュー)


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by hishikai | 2009-08-10 14:06 | 憲法・政治哲学


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