2009年 08月 18日
親泊朝省
e0130549_2382811.jpg保元元年(1156)いわゆる保元の乱で、崇徳上皇の招に応じた源為朝は敗れ近江で捕えられたが、斬らるべき運命を後白河帝に赦され伊豆大島に流された。やがて為朝は旧臣らと共に琉球へ渡り、此の地で豪族の妹を妻として男児をもうけ、その子が後の舜天王となり尚王朝の祖となったことは琉球正史『中山世鑑』の伝えるところである。

それから七百年後の明治三十六年(1903)著名な教育者であった親泊朝擢(おやどまり・ちょうたく)の子、親泊朝省(ともみ)は尚王朝の一族として先祖と同じく「朝」の一字を継いで沖縄に生まれた。幼い頃より読書が好きで作文を得意とした温順な少年は、自ら一念発起して熊本陸軍地方幼年学校へ入学した。

親泊朝省はここで終生の友となる菅波三郎と出会う。二人は同じ熊幼出身生徒として三ヶ年の後には、共に東京市ヶ谷の陸軍士官学校へ進み、大正十二年(1923)陸軍士官学校予科を卒業した。その後、親泊は羅南の騎兵第二十七聯隊第二中隊に士官候補生として入隊。そこで中隊教官を努める西田税(みつぐ)少尉を知る。

「羅南には素晴しい先輩がいる。是非君に会わせたい人だ」その頃、鹿児島の歩兵第四十五聯隊にいた菅波三郎に届いた親泊の手紙には、西田税の名が誇らしげに記してあった。それから二年後の大正十四年、陸軍士官学校本科を首席で卒業すると再び羅南の原隊に復帰。昭和五年には菅波三郎の妹英子を妻に迎えた。

昭和六年(1931)満州事変勃発に伴って出征し翌七年、南満州錦西城で張学良軍に包囲された第二十七聯隊本部を奪還。聯隊長が戦死という激戦の中で小隊を率いて本部へ突入して軍旗を護る。昭和十年、長女靖子誕生。昭和十一年、二二六事件。軍当局による一審即決の裁判により西田税は死刑。菅波三郎は禁錮五年の刑を受けて軍を追われた。

騎兵少佐に進んだ昭和十四年、陸軍大学校専科に進み翌十五年に卒業すると広東方面に展開する第三十八師団の作戦主任参謀に就任。この年、長男朝邦誕生。昭和十六年、大東亜戦争勃発。第三十八師団は香港攻略戦に従い、次いでジャワ攻略戦、十七年秋には米軍の反攻が本格化したガダルカナル島にその鉾先を転じた。

極端な糧食の不足と疫病の蔓延により損耗の激しいガ島守備隊は翌年二月に撤収。そのとき迎えの艦船に乗り込む守備隊兵士の、あるいは杖にすがり、あるいは軍刀を突き、あるいは戦友相扶け、あるいは戦友の背に負われ疲弊した姿に、迎えの兵士たちは男泣きに泣いた。親泊朝省も見る影もなく痩せ衰えていた。

大本営情報部勤務を命ぜられ昭和十八年秋、東京に帰来。民間の報道機関に戦況を報知する任務に従事するも「軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することができない。心の中では申し訳ないと詫び続けている。ほんとうに辛い職務だ」と羅南時代の部下に洩らしていた。そして昭和二十年、終戦。

同年九月三日早朝、目黒の菅波三郎宅に親泊の隣家なる米屋が駆けつける。──「親泊様、御一家御一同御自害、相果てられました」──菅波は小石川の親泊宅へ急行する。玄関の扉を排して二階へ駆け上がると、八畳間に盛装をした親子が四人、右から朝省、英子、靖子、朝邦の順に並び、朝の光の中で眠るように息絶えていた。

軍服の朝省と盛装をして薄化粧の英子は拳銃でこめかみを射ち抜き、十歳の靖子と五歳の朝邦は青酸カリを呑んでいた。菅波の発見は三日であったが自決はその前日、九月二日であったかも知れない。だとすれば、それはミズーリ艦上で大日本帝国の降伏文章調印式のあったその日、また『中山世鑑』の伝える源為朝が近江で捕えられた、その日である。

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by hishikai | 2009-08-18 23:25 | 大東亜戦争


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