2009年 08月 25日
彼は指を差しだし、その者を召し捕れと護衛たちに命じた。…護衛たちは囚人を神聖裁判所の古い建物のなかにある、狭くて陰惨な丸天井の牢獄に連れていき、そこに閉じ込める。…深い闇のなかでふいに牢獄の鉄の扉が開かれ、手に燭台をたずさえた老審問官がゆったりと中に入ってくる。…やがて静かに歩みより、燭台をテーブルに置いて彼に言うのだ。 「で、おまえはあれか? あれなのか? …答えなくともよい…そうとも、おまえは、むかし自分が言ったことに何ひとつ付けくわえるべき権利を持ってはいないのだ。…おまえが地上にあったときにあれほど擁護した自由を人々から奪うこともできない。おまえがふたたび告げることはすべて、人々の信仰の自由をおびやかすことになるのだ。…それでもわれわれはこの仕事を、最後までやり遂げたのだ。おまえのためだ。十五世紀間、われわれはこの自由を相手に苦しんできたが、いまやその苦しみも終わった。…知るがいい。…彼らは自分からすすんでその自由をわれわれに差しだし、おとなしくわれわれの足もとに捧げた。…なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ! …ところがおまえは、人間から自由を奪うことを望まずに、相手の申し出をしりぞけてしまった。なぜなら、もしその服従がパンで買われたなら、何が自由というのかと考えたからだ。で、おまえは、人間はパンだけで生きているのではないと反論したわけだ。…しかしわかっているのか。…お前は知っているのか。何百年の時が流れ、人類はいずれ自分の英知と科学の口を借りてこう宣言するようになる。…『食べさせろ、善行を求めるのはそのあとだ!』…おまえの神殿の跡地には新しいバベルの塔がそびえ立つのだ。…そのとき、このわれわれが彼らの塔を完成させてやるのだ。…そう、人間どもはわれわれなしでは絶対に食にありつけない。彼らが自由でいるあいだは、どんな科学もパンをもたらしてくれず、結局のところ、自分の自由をわれわれの足もとに差しだし、こう言うことになる。『いっそ、奴隷にしてくれたほうがいい、でも、わたしたちを食べさせてください』こうして、ついに自分から悟るのだ。自由と、地上に十分ゆきわたるパンは両立しがたいものなのだということを。…非力でどこまでも罪深く、どこまでも卑しい人間という種族の目から見て、天上のパンは、はたして地上のパンに匹敵しうるものだろうか? それに、もし天上のパンのためにおまえのあとから何千何万という人間どもがついていくとしても、天上のパンのために地上のパンをないがしろにできない何百万、何千万というほかの人間たちはどうなるのか? それとも、おまえにとって大事なのは数万人の大いなる強者だけで、残りの何百万人、それこそ浜辺の砂のような無数の、たしかにお前を愛してはいるが弱者である人間たちなどは、大いなる強者たちのための人柱に甘んじるしかないというのか? …いや、われわれには弱者も大事なのだ。彼らは罪にまみれた反逆者ではあっても、最後にはそういう彼らも従順になる。…われわれからパンを受け取るさい、彼らははっきりと目にする。われわれが彼らの手で収穫されたパンを取りあげるのは、どんな奇跡もなしに彼らに分配するためだということを。…そうとも、われわれは彼らを働かせはするが、労働から解き放たれた自由な時間には、彼らの生活を、子供らしい歌や合唱や、無邪気な踊りにあふれる子供の遊びのようなものに仕立ててやるのだ。…われわれは彼らにこう言ってやる。かりに、われわれの許しを得て犯された罪であるなら、どんな罪でもあがなわれる、と。…妻や愛人を持つことも、子供を持つか持たないかも、すべてわれわれが、彼らの従順さの程度にかんがみて許可もすれば禁止もする。…そして彼らの幸せのために罪を引き受けたわれわれは、おまえの前に立ってこう言う。『できるものなら、やれるものなら、われわれを裁くがいい』と。」 審問官は口をつぐむと、囚人が自分に答えてくれるのしばらく待つ。…囚人は自分の話を終始感慨深げに聴き、こちらを静かにまっすぐ見つめているのに、どうやら何ひとつ反論したがらない…ところが彼は無言のままふいに老審問官のほうに近づき、血の気のうせた九十歳の人間の唇に、静かにキスをする…これが、答えの全てだった。(ドストエフスキー/『カラマーゾフの兄弟』〈亀山郁夫訳〉より「大審問官」抜粋)
by hishikai
| 2009-08-25 02:10
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