2009年 08月 27日
『革命について』(「大審問官」への解釈)
e0130549_9281798.jpg フランス革命の別の非理論的な側面を扱った古典的物語、つまり、フランス革命の主役たちの言葉と行為の背後に潜む動機の物語は「大審問官」であり、そのなかでドストエフスキーは、イエスの無言の同情と審問官の雄弁な哀れみを対照的に扱っている。同情とは、まるで伝染でもするかのように他人の苦悩に打たれることであり、哀れみとは、肉体的には動かされない悲しさであるから、両者は同じものでないだけでなく、互いに関連さえもないのであろう。同情は、それ自体の性格からいって、ある階級全体、ある人民、あるいは──もっとも考えられないことではあるが──人類全体の苦悩に誘発されるものではない。それは独りの人間によって苦悩されたもの以上に先に進むものでなく、依然としてもとのままのもの共苦にとどまっている。その力は情熱自体の力に依存している。すなわち、情熱は理性とは対照的に、特殊なものだけを理解できるのであり、一般的なものの概念を持たず、一般化の能力も持たない。大審問官の罪は、彼がロベスピエールと同じように「弱い人々に引き寄せられた」という点にあった。なぜそれが罪かといえば、このように弱い人々に引き寄せられるということが、権力への渇望と区別することができないからであり、のみならず、彼は受難者たちを非人格化し、彼らを一つの集合体──いつも不幸な人々、苦悩する大衆等々──へとひとまとめにしたからである。ドストエフスキーにとって、イエスの神聖のしるしは、万人に対する同情を、一人一人の特殊性において、すなわち、彼らを苦悩する人類というようなある実体に総括することなく持ちうる彼の能力のなかにはっきりと現れていた。その神学的な意味は別として、この物語の偉大さは、もっとも美しく見える哀れみの理想主義的で大袈裟な文句が同情と対決するとき、いかに空虚に響くか、それをわれわれに感じさせる点にある。
 この一般化できないということと密接に結びついているのは、徳の雄弁と対照的に、善のしるしである奇妙な無言、あるいは少なくとも言葉に対する戸惑いである。それは哀れみの多弁さに対する同情のしるしである。情熱と同情は言葉を持たないのではなく、その言葉は言葉よりもむしろ身振りや顔の表情から成り立っているということである。イエスが沈黙し、大審問官の延々と続く独白の淀みない流れの背後に潜む苦悩にいわば打たれていたのは、彼がその敵対者の言葉に同情をもって耳を傾けていたからであって、言うべきことがなかったからではない。この耳を傾けるという行為の強烈さによって独白は対話に変るが、それは言葉ではなく、身振り、接吻の身振りによってのみ終わりとなる。(中略)そして徳が、不正をなすよりは不正を耐え忍ぶほうが良いということをいつも主張しようとしているとすれば、同情は、他人の受難を見るよりは、自分が苦しむことのほうが楽であると、まったく真剣に、時にはナイーヴにさえ見えるほど真剣に述べ、それによって、徳の主張を乗り越えるのである。
 同情は距離を、すなわち政治的問題や人間事象の全領域が占めている人間と人間のあいだの世界的空間を取り除いてしまうので、政治の観点からいえば、同情は無意味であり何の重要性もない。(中略)同情はただ情熱的な激しさで苦悩する人そのものにむけられる。同情が語るのは、それによって苦悩がこの世界で耳に聴こえ眼に見えるようになるところの、まったく表現主義的な音や身振りに対して直接答えなければならないその範囲だけである。一般に、人間の苦悩を和らげるために世界の状態の変革に乗り出すのは同情ではない。しかも同情が変革に乗り出す場合でも、それは法律や政治のような、説得とか話し合いとか妥協のようにだらだらと続く退屈な過程を避け、その声を苦悩そのものに向けるだろう。ひるがえって苦悩は、迅速で直接的な活動、すなわち、暴力手段による活動を求めるはずである。(H・アーレント/『革命について』より抜粋)

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エッチング:K・コールウィッツ 1899年

by hishikai | 2009-08-27 03:44 | 資料


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