2009年 08月 31日
石川淳、昭和二十一年の作品『焼跡のイエス』は、敗戦国日本の闇市をカンバスとして、大声をあげて食い物を売り、あるいは食欲の機械となってこれに群がる人々と、その人々の間を無言で駆け抜ける獣のような少年とを対比して描く。 いまや「君子国の民というつらつきは一人もみあたらず」人々は「モラル上の瘋癲、生活上の兇徒」である。「天はもとより怖れる」ところではない。しかしながら劣情旺盛取引多端は旧に依って忙しく、その行動は「今日的規定の埒外には一歩も踏み出してはいない」 そのような人々の間を駆け抜ける瘡のある少年は、蠅のたかった握飯に食らい付き、シュミーズ姿の女に抱きつく。その無言の暴力は一つ一つが命令のような威厳を持ち、あたかも彼は律法の上に立つ者の如くである。その姿に接した人々の心に悲鳴に似た戦慄が波を打つ。 人々と少年の対比は「大審問官」を思わせる。大審問官はイエスが人々に与えた自由を強者の特権だと責め、自分は弱者から自由を取りあげる代わりにパンを与えている、この哀れみこそが真の救済なのだと主張する。イエスは無言の同情と接吻でこれに答える。 大審問官の雄弁な哀れみは人々の食い物を売る大声に、イエスの無言の同情と接吻は少年による無言の暴力に、それぞれ裏返っているが同じものを表す。そして常に同情は哀れみを超える。そのことは人間世界の問題が同情の側にあることを示す。 哀れみの為政者は人々を弱者として扱い、自由と引き換えにパンを与え、政治の道具として組織する。人々もまた弱者であることを自認し、自由と引き換えにパンを押し頂いて政治を思考する。このとき人間世界の問題全てが哀れみの問題、政治の問題であると錯覚される。 そうして一般化できない個々の問題の集積としての人間世界、それら全てが特殊な問題の集まりで、したがって必要なのは同情であって、自分以外の誰かが拠出するであろう富をあてにした哀れみ、つまり政治よる分配ではないことが人々から忘れ去られていく。 だが人間世界の問題はイエスの無言の同情の中にある。その背後に広がる苦悩の闇は、時として暴力となって現れるかも知れないが、しかしそれは政治の唱える哀れみよりも遥かに人間世界の本質に接近している。人々が戦慄したのはその事実を少年の姿に見たからである。 同じく国の文化──日本書紀も、万葉集も、古今集も、源氏物語も、平家納経も、太平記も、近松心中も、そして大東亜戦争の諸戦記も、全ては闇の中に納められている。だから私たちは国のこととして政治よりも先に、歴史を云い、伝統を云い、文化を云う。 石川淳は「作品は常に闇の戸口から始まる。そしてその終わるところもまた闇の中でしかない」と書いた同じ筆で、野獣のような暴力で自分から金を奪おうとして取り押さえた少年の顔が「苦患にみちたナザレのイエスの、生きた顔にほかならなかった」と書いた。今日では逆説となってしまったその思考を、私たちが再び取り戻す日は来るのか。 『ピエタ』ミケランジェロ 1499年ごろ
by hishikai
| 2009-08-31 13:11
| 文学
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