2009年 09月 20日
自由論は、ふたつの学問分野で展開されてきただけに、その論法・捉え方はそれぞれ特有である。ひとつが道徳哲学上の自由論であり、これは人間にとって自由がいかなる道徳的価値を持っているかを論ずるものをいう。(中略)他のひとつが政治哲学上の自由論であり、これは、いかなる政治体制であれば人が自由でいられるかを問うものである。この区別は、既にG.ヘーゲルがカントを批判するさいに──政治制度を語らないカントの自由論は超越論だと──なしたところであったが、多くの人の気づくに至ったのは比較的最近のことである。(阪本昌成/『法の支配』) この文章は「制度を語る」という根本的な問題を私たちに提起している。ある理念についての道徳的あるいは社会的な価値を考えたのならば、次には国の制度として、それがどのような形で実現されるべきかを考えねばならない。 折しも9月18日に開催された自民党総裁選挙の候補者所見発表演説会において、西村康稔、河野太郎、谷垣禎一の三氏が各々の所見を述べた。三氏はいずれも自由民主党を保守政党と定義したが「小さな政府」という明確な制度を示したのは河野氏ただひとりであった。 西村氏は適材適所の人材配置と老壮青の持つ力を結集しようと呼びかけ、谷垣氏は保守主義の原点は皆で支え合う絆の精神であり簡明に言うならば「みんなでやろうぜ」ということであると訴えたが、ついに両者は制度論へと踏み込まなかった。 一体何であろう。政党人が制度を語らずにその存在意義を確認できるであろうか。ある理念を語り、ある理想を語って人間が結集するのであれば、それは謂わば精神修養塾のようなもので、政権獲得を目指す政党ではない。 政党ばかりではない。保守主義者一般が制度を語らないことも問題である。憲法の構造、政府の規模、経済体制、地方自治、福祉制度などを保守主義の言葉で紡ぎ出し、保守主義の観点からどうあるべきかを表明しなければ、保守主義はその輪郭を茫洋とさせたままである。 日本民族の美点を語るのも結構、戦前の偉人の功績を語ることも結構、日本文化の如何に美しいかを語ることも結構、それらは真に善いことである。しかしながら、それと同時に制度を語ろうではないか。──制度を語らない保守主義は超越論──でしかないのだから。 『鑑真和上東征絵伝』 蘇州黄泅浦から遣唐使の船に分乗する一行 13世紀作 留学生たちが命懸けで伝えたものは仏教や文物だけではなく、制度もその重要な一つであった。
by hishikai
| 2009-09-20 20:30
| 憲法・政治哲学
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