2009年 12月 25日
ホテルの部屋から太平洋の夜明けを見ようと思ったが寝坊した。はだけた浴衣を直して遥か沖に眼を凝らせば空と海は一つの灰色に溶け合い、中空には黒い鵜が寒そうに飛んでいる。浜の白い波を辿った北の方角には、岸壁に波濤を打たせて五浦の岬が見える。 五浦は岡倉天心が明治三十九年に横山大観や菱田春草らを伴って東京から移り住んだ処で、初めて此所を訪れた天心は、草むらに顔を埋めたまましばらく動かなかったと伝えられ、今日でも岩礁に砕け散る怒濤を眼下として松林から遠く大洋を望む景勝の地である。 もっとも天心が五浦に移り住んだのは、東京美術学校の校長職を追われた後に、自ら設立した日本美術院の、その理想が世に理解されずに経営が困窮したためで、それが新聞紙上に「美術院の都落ち」と書かれたように、彼としても本望であったわけではない。 その理想について一つの逸話がある。小林古径が天心の推薦で前田公爵から日英展覧会出品の「加賀鳶」の依頼を受けたとき、天心は下絵を見た後で古径に向かって「加賀鳶が江戸風俗だからといって師宣ぐらいを考えちゃいけません」と云ったという。 古径はこれを、もっと高いところに標準を置け、信貴山縁起ぐらいの高さで描いてみよ、という意味に受け取ったという。江戸風俗を信貴山縁起の高さで描く。これは日本人が鎖国の眠りの中で忘れていた世界史的な高雅であった。 今日でも私達は正倉院や法隆寺にある奈良朝の世界精神に瞠目するが、それは同時に、当時のアジアの豊かさを物語っている。そこに植民地となった近代のアジアを重ねるとき、明治日本の灯すべき美術意識は、そうしたアジアの世界史的変遷と切離すことができない。 だから天心は、アジアに唯一孤塁を護り、アジア文明の博物館である日本国の美術は、奈良朝の高さを保った民族的熱情の具現でなければならず、今度はこれをシルクロードの隊商とは正反対の方向に伝播させることで、アジアに復興の希望を示そうとした。 その果ての五浦行である。それは、凍れる音楽の学校唱歌への敗北、王政復古の文明開化への敗北だった。「神様、あなたのなさることには感心できないことがある」岡倉天心は、そう云って五十一年の生涯を閉じた。大正二年九月二日午前七時三分であった。 五浦の少し南に位置する磯原の浜辺。ここのホテルにはバーラウンジがあると聞いていたが、扉を開けて店にあったのはカラオケセットであった。そこで私は「空の神兵」を歌い、それを聞いたママさんは「お若いのによくご存知ね」と云った。ありがとうございます。瞑目。
by hishikai
| 2009-12-25 11:38
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