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2010年 01月 19日
小沢一郎という私たちの問題
小沢一郎という私たちの問題_e0130549_1427416.jpg例えば遠藤浩一拓殖大学教授は昨年12月23日にizaのコラムで小沢一郎の政治思想について「選挙という民主主義的ツールを活用して多数派を形成すれば、あとは何でもありというのは、全体主義が鎌首をもたげ始めるときに特有の光景」として、その本質を民主主義を装った全体主義と評しているが、小沢一郎が目指しているのが全体主義などではなく、まさに民主主義そのものであるとすれば、事態はさらに悲観すべきものであろう。

現に小沢一郎は昨年12月21日の定例記者会見において「天皇陛下の行動の責任を負うのは国民の代表、国民が選んだ政府内閣。だから内閣が判断したことについて、天皇陛下がその意を受けて行動なさるということは当然」と発言していて、そのことで彼が目指すものが民主主義であることを明確に表明している。

敗戦後もなおGHQが天皇を憲法一条に明記される法的な存在としたことは──たとえそれが表向きの理由であれ──我国の歴史慣習を根拠にしていると考えるより他に何もないが、小沢一郎としてみれば主権者である国民の民意はこのような歴史慣習としての法を超える、すなわち「民意は法を超える」と言いたいのだ。

これは今月16日の民主党大会で自身の政治資金疑惑に対する検察の捜査手法について「これが通るならば、日本の民主主義は暗澹たるものになる」と──法手続きの問題ではなく──「民主主義」の観点から言ったのも小沢一郎の政治思想の主眼がここにあるためで、これを一部で言われているように官僚と政治の対決と見る視点は、我国の戦後問題を卑近に引きつけ過ぎているために日本人の心の底にまで回った民主主義の功罪に対する考察を、いとも簡単に放棄してしまっている。

小沢一郎の問題は同時に私たちの問題でもある。現在のところ私たちは安全保障上のことや外国人参政権のことによる反発から小沢一郎の主張する民主主義を異様なものと感じ始めているが、つい昨秋も私たちは子供手当や生活第一と呼び換えられた国家による生活保障の拡充を、財政規律や生活の自助努力という──それが成文法ではないとしても──当然の慣習法を忘れて新しい政府に期待したことは記憶に新しい。

そしてこれこそまさに「民意は法を超える」その民主主義の典型であって、戦後一貫して私たちが信奉してきた民主主義の本質である。小沢一郎はそれをストレートな姿で私たちに示したに過ぎない。しかし、その姿の異様さを目の当たりにした今だからこそ、私たちはあらためて民意と法のどちらが重いのか、さらには「人の支配」と「法の支配」のどちらが私たちの選択すべき世界なのかについて、思いを巡らせるべきではないだろうか。

これまで私たちは民主主義を善なる政治思想として無批判に受入れ、そこから民主主義に対立する悪の政治思想をナチズムやスターリニズムに代表される全体主義と考えてきたが、これは誤りである。全体主義は民主主義を始祖として、ともに人間理性の絶対を信ずる同じカテゴリーの政治思想である。我国のように天皇陛下を戴く国家が信ずべきは人間理性などではなく、先人たちの歴史的経験が錬磨してきた慣習である。

by hishikai | 2010-01-19 14:42 | 憲法・政治哲学


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