2010年 03月 19日
東京は美しくなりつこなし
e0130549_1213296.jpg「外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即ち此の如し」永井荷風が江戸見阪上から震災の焼け野原に快哉を叫んでいたとき、残された人々は早くも余煙の向こう側に自分たちの父祖と同じ、あの文明開化の眼差しで新しい東京を幻視していた。

翌大正十三年七月に時事新報社から発行された『新しい東京と建築の話』には、建築家や芸術家の復興への抱負を述べた小論文が集められている。黄色い布表紙には意匠化された太陽と、その中にやはり意匠化された住宅と植栽とが同じ濃赤色で描かれている。

ページをめくると、ある人は耐震構造を、ある人は耐火資材を述べている。帝都復興院建築局長の佐野利器は復興に採用すべき建築様式を述べている。そうした中で建築家の遠藤新だけは、全く別の視点から見解を吐露していて異彩を放つ。以下に抜粋して引用する。

「私はいふ、東京は美しくなりつこなし。一體地震前に一として碌な建築があつたか。一つもない。出来なかつたのだ。頭がないのだ。腕がないのだ。(中略)
 殊に地震で腰をぬかし、おつかなびつくり、一にも耐震、二にも耐震でこしらへて、よいものが出来る道理なし。(中略)
 全體、建築は地震に耐えなくては困る、然し耐えるのが當然なので、建築家の自慢にはならない。建築の使命は一地震に耐えるや、耐えないの小つぽけな所ではなしに、それを越えて、遥に大きな所にある。人生の真実に徹して、美を将来するの真骨頂に触れて居るものは、天下誠に寡しとする。(中略)
 世間は、所謂研究とは、統計の無機的堆積であること、研究家もまた無機的知識の堆積に過ぎないこと、そこから何等断案を期待し得ないことを知らねばならぬ。」(遠藤新/『建築家を坑にせよ』)

このとき遠藤新は三十五歳。七年前よりF.L.ライトに師事して帝国ホテルの建設にチーフアシスタントとして携わっている。その帝国ホテルは落成の日に震災に遭遇しているが、一部を損壊しただけで大きな被害を免れ、その堅牢は一躍世間に知られるところとなっている。

だが遠藤は(建築は地震に)「耐えるのが當然」と云う。もっと「遥に大きな所」を見よ、「美を将来するの真骨頂」を考えよと云う。世間が帝国ホテルの堅牢にだけその価値を見出していることを、日本人の近代文明に対する気質の問題として憂いている。

『大震災の印象』有島生馬 無論のこと後藤新平を中心とした帝都復興院の人々が都市や建築の美しさに無頓着であったというわけではない。戦後の東京の現状に比較すれば、戦前の帝都復興事業の成果は称賛に値する。だがそこで語られるのは技術者の「景観」であっても、芸術家の「美しさ」ではない。近代日本文明の中で、それら二つの価値観が断絶してきた事態には、看過できない問題が潜んでいるように思われる。

by hishikai | 2010-03-19 12:11 | 文化


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