2010年 04月 03日
無意味の贅事
e0130549_10212174.jpg佐野利器が『建築科の覚悟』で述べているのは、次のようなことであろう。日本の建築家の職務は丈夫で役立つ建築物を廉価に作ることにある、したがって日本の建築家は技術者である、技術者である建築家が芸術を勘案することは不要である。──

その理由として佐野は、日本の富力が到底未だ列強の脚下にも及ばないことを挙げている。列強と同じことをやっていては、富力の差は工業力と軍事力を間にはさみ、現実的な国力の差となって、彼我の距離を加速度的に開かせてしまう、そう考えている。

何か近道を探さねば。実際、明治日本はそうして列強に追いついてきた。案件の成功は外国製の資材を輸入し、国産の設計と運用の工夫で成果を得ることであった。戦艦安芸は一万トンを超える船舶としては、世界で初めてアメリカ製蒸気タービンを積んで快速を誇った。

全てを満足させることはできない、我々は何かを捨て何かを得なければならない。そうした心情は、後発国日本の喫緊の要請であった。そして国民の道徳でさえあった。それが留学中の佐野をして、建築における芸術性を「無意味の贅事」と言わしめたのであろう。

ここで建築における芸術性が不要であるか否かを問う必要はないと思う。一国の文明の表象である建築が、そこに居住する人間の情操に配慮すること無く、ただ丈夫で役に立ち廉価であれば良いなどという議論は成立の余地をもたない。

ただ佐野が「日本の建築家は何であるべきか」に解答を与えた要因に注目したい。「解答を與ふるものは唯一、今日の日本の事情より外ない」そう言っている。「事情」である。ここに「大法(プリンシパル)の把握」を言うF.L.ライトとの根本的な違いがある。

例えば一台の馬車を想像してはどうだろう。車室には御者が乗り、馬を操っている。車室は国家、御者は思想、馬は技術である。佐野は御者(思想)による操縦を拒否している。すると馬(技術)は、道(事情)なりに走るしかない。

そうした姿は日本の近代そのものではないだろうか。馬に曳かれた馬車は風を切って走っていく。御者はまるで玩具のように車室のうえでゴトゴトと揺れている。一体どこで道を誤ったのか、誰にもそれを知る術はない、ただ馬は道のあるままに走っていく。

学士会館 設計は佐野利器と高橋貞太郎。昭和三年(1928)に落成したこの建物は、現在も神保町のオフィスビルの間で佐野の理想を今日に伝えている。二二六事件では第14師団東京警備隊司令部、終戦後はGHQの将校クラブとして接収されている。現在、館内にはレストランやバーが入っていて、なかなか美味しそう。是非一度お邪魔してみたい。登録有形文化財。高橋貞太郎は佐野の教え子で、F.L.ライトの帝国ホテル旧館を取壊した後の、帝国ホテル新館を設計している。高橋は川奈ホテルの設計を手がけるなど、大倉財閥との深い繋がりを伺わせる。川奈ホテルについては稿を改めて紹介したい。彼処はもう最高である。

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by hishikai | 2010-04-03 10:49 | 文化


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