2010年 04月 19日
洋臭畸形の街
e0130549_1104575.jpgC.ビアードの『東京復興に関する意見』は、関東大震災の前年、大正十一年(1922)から十二年の半年を東京に滞在して作成された彼の東京市政への意見書を下敷きとして、これに震災直後に再び来日し調査した内容を加え、大正十三年十月に公表されたものである。

これは街路、運輸、財政問題等についての小冊子だが、この最後に「帝都の尊厳及び美観に関する考察」と題された第十一章があり、ここで彼は東京が「洋臭畸形建築」に有余った都市であるとし、その古代美を忘れ、地に委せられる現状に戦慄を禁じ得ないと記している。

そして東京の復興に際しては帝都建築美術委員会を設置して、これに公共建築物の設計を審査させるよう提言している。この制度によって公衆の美に対する興味を喚起し、以て趣味を向上させ、併せて美観を損なう建築を防止する効果のあることを彼は期待している。

都市に於ける美術委員会の設置は、彼の母国アメリカでの経験を基礎としている。アメリカでは1890年代から全国の市民が美化団体を結成し、租税で購入する美術品や、施工する建築の審査を行なう公式の美術委員会の設置を市に要請し、これを実現している。

その運動の活発であったことは、美化団体の数が1894年に50団体であったものが、1905年には2426団体と急増していることにも伺われ、その啓蒙家としてはジャーナリストのチャールズ・マルフォード・ロビンソン(Charles,Mulford,Robinson)が知られている。

彼の1901年の著書『町と市の美化』は、街路計画、街路の美化としての電線地中化、建築の美的規制、交通の規制、広告の規制、街路樹・公園・遊び場の必要性、そして公衆教育の重要性を訴え、十一版まで増刷を重ねてアメリカの多くの人々に読まれている。

このとき美化団体に参加した人々の美意識は、建築ではフランスの新古典主義、公園ではイギリスの自然美を目指していたといわれる。これは独自の伝統様式を持たないアメリカの人々が、その建国の源流をヨーロッパとイギリスの伝統に見出した自然な発想であろう。

これに対して我国は永い歴史の中で、独自の伝統様式を育んできた。したがって美術委員会のような制度を我国で行なう場合、その美意識を独自の伝統に見出すことは同様に自然な発想である。C.ビアードもそうした発想に立ち、以下の提言をしている。

曰く、日本建築の様式を公共建築物に採用すること、日本式の記念建造物を造ること、公園は日本式となすこと、である。だが進歩とは常に欧化であった我国近代の心理には、過去を呼び戻すこうした施策を、常に退歩と視る不安がつきまとっている。

実際これに対しては二つの反論があった。一つは『建築非芸術論』を著した野田俊彦によるもの、もう一つは海軍を退役して未来戦記の作家となった福永恭助によるもので、そのいずれもが日本人の目指すべき美意識を、現在と未来の中に見出していた人であった。

並木通りの人々「銀座画集」織田一磨 画 たそがれの銀座である。ほのかに夕闇が漂いはじめた並木通りを浮き出るように洋服の人々が行き交う。織田一磨は新しい東京を、そうしてうつりかわる東京の風俗を愛情をこめて描きつづけた。

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by hishikai | 2010-04-19 11:35 | 文化


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