2010年 07月 10日
自身が一個の世界として立つべきこと
e0130549_13391672.jpg先日あるブログに「痴呆化する保守」という記事があった。文芸春秋に掲載された藤原正彦の文章に対する批判で、論旨は定式化された保守批判で目新しくはないが、それにしてもこの類いの批判が根強くあることについて、保守主義者は無頓着であるように見える。

戦後の思潮として、あるいは喫緊の要請としても、自己の思想的立場を明らかにすることは経済を語ることで為される。政府の市場への介入がどこまで許されるのかという課題を入り口として、国内外の様々な問題に向かって思考の道が拓かれているのが現状である。

政府の市場への介入に否定的な人々は、個人による生活の自立を訴え、政府の市場への介入に積極的な人々は、政府による生活の保障を主張している。一般的な分類でいえば前者が自由主義者で後者は社会主義者であろうし、その中間の立場も無限に存在するであろう。

ともかくも、こうした議論が単に経済政策にとどまらず、むしろ国内外の諸問題と密接に関わっているということは、経済思想というものが「人間とは何か」を出発点として、具体的な制度論へと結実し、一個の完結した世界観を形造っているからに他ならない。

例えば共産党という集団がそれなりに存在を認められ、あるときは人々から一目置かれるというのは、彼らが彼らなりの「人間とは何か」を出発点として、具体的な経済体制のモデルと完結した世界観を持っているためで、いつでも増税に反対しているためではない。

戦後日本人の歴史認識の全てをGHQの思想統制に求め、その流れから自由主義的な経済政策をアメリカの陰謀と批判し、民主党の国内政策を中韓の陰謀と批判し、最後に大和魂と武士道で締め括るという保守主義者の主張の、人々に対する説得力は如何がであろうか。

冒頭に指摘した記事のタイトルが「痴呆化」であるというのは、そうした保守主義者の主張が、かつての小林秀雄や福田恆存の文学的知性すらも失い、いまや時代に取り残された老人の繰り言になったという、人々の倦んだ印象の一端を表しているのではなかろうか。

であるならば保守主義者は経済を語るべきではないか。「人間とは何か」を語り、人間の集まりである社会を語り、社会が依って立つべき経済体制を語り、経済体制が現実に機能する制度を語るべきではないだろうか。自身が一個の世界として立つべきではないのか。

『岩倉大使欧米派遣』山口蓬春 画 帝国列強から我国を護り、今日の礎を築いたのは明治の元勲たちと、それに前後する有名無名の人々であったが、彼らが武士道を心底深くに堅持ながらも、なお強く抱いていたのは「今は何が必要か」という問題への、文化の国境を度外視した非情なまでのリアリズムであった。

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by hishikai | 2010-07-10 13:47 | 憲法・政治哲学


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