2010年 07月 17日
即興詩の男
「その本を読んで全てを信じるのなら、読まない方がよい」という言葉がある。学生のときに倫理の教科書の一頁に見かけた言葉で、遠い記憶でもあり、また西洋の諺でもあるので、本当はもう少し違う言い方をするのかも知れないが、正確なところは判らない。ともかくも私はこの言葉をいつでも心の片隅に留め置いて本を読んできた。

物事は多面体の宝石のように多様な側面を持っている。だから何であれ、本の内容には必ず取り逃がされた面があり、それを承知せずに全てを信じることは理解として危うい。ときに古書の行間に「そんな馬鹿な!」という書き込みを見つけると、私にはそれが先んずる人々の懸命な努力の痕跡であるように思われてならない。

ところが詩人のまとまった文章を読むと、そうした考え方とは正反対の率直な感性に出くわすことがある。そのなかで彼らは多面体の宝石を用心深く眺め回すかわりに、手の中の宝石に映った自分の姿を見て茫然と立ち尽くしている。例えば詩人の伊東静雄の日記には、彼の傷ましいような他者への自己投影の姿が記録されている。

「今日大手前に行こうと堺東駅に来たら遺骨の凱旋に出会ふ。皆直立し頭を垂れて迎へてゐると、群衆中の四十位の男──縞のワイシャツに半パンツ、地下足袋ばき、戦闘帽をかぶつてゐる。服装は清潔だが、顔色実に黒く、一見して屋外労働に従事してゐる男らしい。直立不動で、最敬礼し、やがて遺骨に向かつて朗々と何か歌ひ出した。詩吟に似たうたひ方で、又和歌の朗詠のやうでもある。二度ほどくりかえしてうたふ間に遺骨は駅の構外に出て行つた。

富士、清き流れ、もののふ(ますらを)、桜の花の散るがごとく、神武天皇様、靖国の社といつたやうな語句からなるうたで、二度くりかへす文句が少しづつ違ふところをみると、即興詩らしかつた。人々は半ば感動し、半ばうす笑ひ、不思議さうにみつめてゐた。その声は堂々とさびがあり立派であった。

自分は眼底のあたたかくなるのを感じた。いくらか常軌を逸した人らしい眼光もないではなかつたが、狂とも愚とも人は見るこの男の胸に素直に宿り、やがて率直単純に表現せられた皇国の詩情とまごころにうたれた。自分の近来の不安焦燥と、詩人としては緊張のゆるんだ生活を省みることが痛切であつた。

まじまじと人の見つめる視線の中で謡ひをへると、はるか彼方の遺骨の行方に最敬礼し、やがてプラットホームの人の少ない辺に行つて直立しつづけてゐた。(中略)その声の美しさに似ず、それに自ら酔つたやうなひそかにそれを誇つてゐるやうなところの皆無なことが気持よかつた。又人を圧するやうなところもなかつた。謹直と敬虔、英霊と遺族はどんなにうれしかつたらう」(昭和十九年七月八日の日記)

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戦友の胸に抱かれて英霊の凱旋 言うまでもないことだが、伊東は即興詩の男に戦争の中で詩をうたう自分の姿を見ている。そこでは、うたうものとうたわれるもの、それを見るものとが、同じひとつの祈りのなかで渾然一体となっている。

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by hishikai | 2010-07-17 09:40 | 文学


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