2010年 07月 20日
箱と中身
e0130549_2141619.jpg私のように詩を解さない朴念仁を含め、世の中の人々が詩人と理論家どちらの言葉に魅かれるかといえば、やはり詩人であろう。草臥れる理屈より人生の実感に沿った詩に魅かれるのは人の健康な本能である。G.K.チェスタトンは詩と理論について次のように言う。

「詩が正気であるのは、無限の海原に悠然と漂っているからである。ところが理性は、この無限の海の向こう岸まで渡ろうとする。そのことによって無限を有限に変えようとする。その結果は精神がまいってしまうほかはない。(中略)詩人の望みはただ高揚と拡大である。世界の中にのびのびと身を伸ばすことだけだ。詩人はただ天空の中に頭を入れようとする。ところが理論家は自分の頭の中に天空を入れようとする。張り裂けるのが頭のほうであることは言うまでもない」(G.K.チェスタトン/『正統とは何か』)

これはこれで尤もなことだが、こうした考え方は政治にも同じくあてはまるであろうか。つまり詩が正気であるのならば、詩を根拠とした政治もまた正気であるはずで、ならば詩人による政治とか、詩的に語られる政治にも問題はないはずだが、ということである。

例えば国民皆年期制度が「世代間の助け合い」という、明らかに正気な醇風美俗の詩を根拠としながらも、一方で世代間の受給の不公平という問題を抱えている現状は、そうした詩的な政治の危うさを示す最も身近な例ではないだろうか。

考えてみれば政治は人々の背景にある共通項を考慮するために、客観であり、形式であり、つまりは箱である。一方で詩は人それぞれの多様な人生の実感を詠うために、主観であり、内実であり、つまりは中身である。

そして箱にとっての正気は箱の役割を忠実に努めることにあるで、箱が中身であるならば正気を欠いていると言わざるを得ない。同じく中身にとっての正気は中身の役割を忠実に努めることにあるので、中身が箱であるならば正気を欠いていると言わざるを得ない。

政治が人々の詩を一つに要約して中身としたり、詩が自身の多様さを忘れて何事にもぴったりと合う箱になろうとすることは、どちらも正気とは言えない行為で、そのことで期待したような結果を得られなくとも、それは自業自得と考えるより仕方がない。

詩人の言葉に魅かれるあまり、詩を世界に実現しようとすることは正気を失っている。だからどんなに苛立たしくとも、ときには理論家の形式の言葉に敬意を払わなければならない。政治は箱で、中身には自分の詩を入れるという原則を忘れてはならない。

A.ヒトラーは形式を憎悪していたという。民主制における投票や代表による政治は形式に過ぎないが、それが形式であるからこそ多様な人生を盛ることができる。だがそれに飽き足らずに形式を偽善的な「うそ」として、一方で自己の内実を「真の民意」として直接無媒介に表出するならば、国家は地獄となる。

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by hishikai | 2010-07-20 21:47 | 憲法・政治哲学


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