2010年 11月 09日
新内流し
e0130549_12594344.jpgある夜更け、私は、新内流しの写真が古い雑誌に載っているのを眺めている。「下町の芸に生きる。江戸の残照」という大きな活字は、今にも勇躍して眼を射るのであるが、写真の方は、どうにも取り返しのつかないほど遠い昔の姿に見える。

新内流しは唐桟縞の着物に、松葉尽しか何かの手拭を吉原冠りにして、角帯に三味線を吊り、自らこれを弾きながら、後ろに高音を奏でる上調子を相方に連れ、秋虫の鳴くような音曲と共に市中を流し歩く。

「ちょいと、師匠」と二階から女の声。「へいっ」と新内流し。「ひとつお願いしますよ」「ありがとう存じます」。客に呼ばれて軒先に立ち、悲恋情話を語り、あるいは唄う。一曲終えると客はお捻りを投げ、流しはこれを扇に受ける。

あるいは舟に乗って行なう者もある。川筋の茶屋では彼らを窓下に呼び寄せて語らせ、客は座敷の内に居ながら川浪の音と共にこれを翫賞する。その声は、歌舞伎と共に栄えた他の江戸音曲の華やかさとは対照的に、零落した人生の哀婉に満ちている。

雑誌は昭和四十六年の発行であるから、その頃まで新内流しのあったことは確実だが、いつ頃まで残っていたのか判らない。昭和の終り頃には錦糸町辺りで見かけたと、以前に飲屋の客の会話に聞いたことがある。写真には次の文章がある。

富士松さんは明治二十四年茨城県筑波の生まれで八十一歳、家業が床屋だったので十五歳のとき上京して床屋の小僧となった。店が州崎の花柳界のそばだったので、新内流しが来ると好きでよく後をついて歩いたものだった。ある日母親から、そんなに好きならやってみなさい、といわれて深川に住む宮太夫師匠について習い、以来五十五年にもなる。

三味線二人を連れて夏の夕方頃に深川の船宿「武藤」を出る。それから大川を上りながら舟で新内流しを三十年もやってきたが、柳橋、築地、中川、浜町とよく流したところも、今は高い護岸堤防が出来て岸辺の茶屋との縁を断たれてしまった。(雑誌『太陽』第九十八号)

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by hishikai | 2010-11-09 12:53 | 文化


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