2011年 03月 01日
平等に就いて
e0130549_13455433.jpg路地は(中略)今も昔と變りなく細民の棲息する處、日の當つた表通からは見る事の出来ない種々なる生活が潜みかくれてゐる。侘住居の果敢なさもある。隠棲の平和もある。失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との楽境もある。(永井荷風/『日和下駄』)

平等こそ最善最美の道徳であると信じられている今日の我国にあって永井荷風のような言論は到底許されるものではないが、それにしても私たち日本人が平等という考え方に、こうも執着するのは、それが伝統的な価値観だからかと言えば、そうとも思われない。

我国の歴史を辿っても、国家による生活保障だとか、政府による充実した福祉であるとか、これを支える大きな政府だとか、そういったものが存在したという事実を見出すことは出来ない。むしろそうした保障がないからこそ、額に汗して働く人々の姿が営々としてある。

そうだとすれば我国の平等は輸入品ではなかろうか。西洋学問の流入を俯瞰すると、桂川甫周らを代表者とする蘭学に始まり、幕末に福沢諭吉を代表者とする英米学が中心となり、大日本帝国憲法発布の明治二十年代を境として、ドイツ学への傾倒が著しくなる。

学問の基礎が哲学であると云うことを許して貰えるならば、ドイツ学の基礎はドイツ哲学である。ドイツ哲学が何であるかの問いは私の能力を超えるが、そこに道徳哲学の側面が強くあることは間違いないと思う。つまり「人間のあるべき姿」を追求している。

我国には同じく道徳哲学である儒教の伝統があり、そこからドイツ哲学は日本人に馴染みやすい。この「人間のあるべき姿」を追求した明治二十年代以降の思潮が、大正から昭和初期の労働運動を契機として紡ぎ出してきたのが、我国の平等ではないだろうか。

それでも戦前には「身分相応」などの言葉に示された社会階層への意識が歯止めとなっていたが、敗戦でそうした意識が崩壊すると、平等は日本の国是であると云わんばかりの奔流となり、これが今日では国家財政の逼迫からようやく停滞の兆しにある。

そこに思うのは我国の平等が戦前に社会階層から、戦後に財政逼迫から停滞を迫られたことは単に状況の為せる結果に過ぎず、本質的な歯止めではない事である。そうならば私たちは平等の本質的な対立者である「自由」を、もっと考えるべきではないだろうか。

画 農村窮乏風刺漫画・千人針(『東京パック』より) 無論のこと貧困は救うべきだが、その救済も行き過ぎれば危険な反作用を社会に及ぼすことになる。

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by hishikai | 2011-03-01 14:08 | 憲法・政治哲学


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