2011年 03月 23日
奥州は白河の関より入る。古来より、黄金と名馬を朝廷に献じたが、都の人々にとっては、それよりも、伝説と歌枕とによって、内側からぼんやりと照らし出されるように知られた、遠く謎の多い土地であった。 平安朝も中ごろ、摂津の国は古曽部という村に、能因法師という歌人があった。かねてより奥州に憧れ、わが杖ひく姿を夢想していたが、遠い辺地に漂白する勇気なく、ただ夢想に明け暮れ日々を送っていたところ、ふと夢想が彼に一首の歌を詠ませた。 「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」 口ずさんでみると我ながら名作に思われたが、憧れた奥州で詠まないことが口惜しく、行きもせぬ白河の関に行ったことにして家に籠り、顔を陽に焼いて黒くした後、奥州へ修行の次いでに詠んだと云って仲間に披露した。 やや後に、竹田太夫国行という人が、奥州下向の途中、白河の関で装束をあらため晴れ着となった。その理由を問うた人に答えて、能因法師の詠まれた関を、普段着で越えることは憚られると云った。 そして六百年の月日が流れた元禄の初め、白河の関に松尾芭蕉と弟子の曽良の姿があった。春立てる霞の空に奥州を旅してみたくなり、江戸を立ってひと月、ようやく今その関門に辿り着いたところであった。 関の辺りは、四月の暖かい日射しの下に真っ白な卯の花が一面に咲き誇り、二つの影が、あたかも雪の上に映えたように滑りながら、二人の旅人の後を追った。曽良が装束をあらためる心で一句を詠んだ。 「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」 それから芭蕉は松島を訪れたが、句を詠まなかった。ただ島々を眺めて佇み、浜を歩き、やがて海にのぼった月を仰いで、こうした天の業は、どのように筆をふるい、言葉を尽くしても及ばないと日記に書いた。 写真 白河関跡 歌枕の宝庫である奥州の関門。念珠ケ関、勿来関と共に奥羽三関と呼ばれる。
by hishikai
| 2011-03-23 14:00
| 文学
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