2008年 02月 05日
限定放棄説と全面放棄説
e0130549_21284936.jpg日本国憲法第九条が戦力保持をどのように定めているのかということについて、現在では必要最小限で認めるという、いわゆる「限定放棄説」を採る認識が多いように思う。しかし前文に示された理念、第九条の文理、マッカーサー三原則、吉田内閣の公式見解等を考えあわせると、第九条が限定的にせよ戦力保持を認めているとは考え難い。私は第九条については「全面放棄説」を採りたい。

昭和58年の政府公式見解は、それより以前に衆議院で示された理路を受け「国際紛争解決の手段としての武力行使の放棄を通して、日本国民は国際平和を誠実に希求する」それ全体が2項冒頭にいう「前項の目的」である、したがって第九条全体は自衛のための戦力保持を否定したわけではないというものであると思う。

しかし素直に読めば「前項の目的」は「国際平和を誠実に希求し」に求められるべきであろう。平和実現の「手段」である武力行使の放棄に言及した部分を「目的」に関連づけ、その全体を「前項の目的」であるとするのは主客の転倒した不自然な解釈ではないだろうか。

憲法の法源である前文が他国に頼る国防を表明している以上、我国が自衛を全うするためには前文を改正するか、第九条を改正するかの二つしかない。本来であれば前文を改正することが最も望ましいのであるが、国民の憲法制定権力が前文にまで及ぶか否か、つまり前文の改正が法理の上で可能であるか否かは難しい。

国民主権が人民主権であるならば、国民の憲法制定権力は憲法の根本的な性格をも変更できると考えられなくもない。しかしこのような無制限な憲法制定権力を認めることは、人民の持つ主権の無制限を認めることとなり、それはやがて人民の主権が憲法の上位に立つことを肯定する革命の論理となり得て危険である。

「限定放棄説」の定着は、例えば先の拓けた峻厳な道と、行き止まりの平坦な道の分岐点で、後者の道を選んでしまったようで憲法問題の解決という面からは後退である。現実の国防問題は理解するが、どこかで現行憲法の本当の姿を提示し続けないと改正の意義そのものが失われてしまうのではないだろうか。

by hishikai | 2008-02-05 21:42 | 憲法・政治哲学


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