2008年 02月 25日
明治初年の江戸無血開城という事件について、これを執り行った当事者である勝海舟の判断と、これを批判する福沢諭吉の『瘠我慢の説』を同じ土俵に乗せて、合理的という観点から両者を競わせるならば、必ずや勝海舟の判断に軍配が上がるであろう。しかしそれでもなお『瘠我慢の説』が今日にまで伝わるのは、福沢の他の著作の随伴物としてではなく、これを読む人がその主張の向う側に合理性とは異なる得体の知れない警鐘の声を聞くためではないか。福沢は言う。 「瘠我慢の一主義は固より人の私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等しといわるるも弁解に辞なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義に由らざるはなし」 「(無血開城という判断は=引用者)兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責は免かるべからず。殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。これを典して彼を買う、その功罪相償うや否や、容易に判断すべき問題にあらざるなり」 読者が無血開城という合理的な判断に勝海舟の先取された近代性を発見し、それと同じ視線を以てこの『瘠我慢の説』に接するとき、勝海舟が封建の時の最後の人であり、福沢諭吉が既に近代となった明治の人であることを考え併せて、その順逆に奇異の念を抱くであろう。 しかしその違和感を解消するために福沢のナショナリズムを言い、国家主義を指摘することは最も安易な解決策である。ここで本当に行なわれるべきは、この思考の当初より私達が抱く合理的という言葉への無批判な信頼を一旦横に置き、その意味内容について今一度顧みて検討することではないだろうか。 実のところ合理的であるということは合-理性的であることを指す。それは人間理性に叶ったという意味で、理性への信仰を抱え込んだ一種のロマンティシズム、或いは一種の道徳観念である。例えれば不合理でとり散らかされた子供部屋の現実を、何とかして人間理性に合うように整頓してしまいたいという願望の現れに過ぎない。 合理的であるはずの近代にあって、その生存の要諦を不合理にあると主張する福沢諭吉の解りにくさは、私達がそのようなロマンティシズムを懸命に現実に押しあてようとすることから来ている。勝海舟の判断が合理的であると私達が言うときに、その心の片隅にそうあるべしという道徳観念が隠れていて、そのことを私達が見ないようにして現実と摺り替える、その心理が実は危険なのである。 「理性は情念の奴隷である」と言ったのはD・ヒュームであるが、そのような事実としての人間像を認めるならば、大衆に大きく左右される近代国民国家にあっては、むしろ不合理こそが現実であることに気が付く。それを諦念し、はっきりと覚悟して歩き出さなければ国家の維持保存は不可能である。幕末に執り行なわれた合理を賞揚することで、不合理を忌避する方向へと国民の心性が傾斜するならば、それは近代国民国家となった日本にとって命取りとなる。そういうことを福沢諭吉は「瘠我慢」という言葉に託して言いたかったのではないだろうか。
by hishikai
| 2008-02-25 12:14
| 憲法・政治哲学
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