2008年 02月 26日
割れた鏡
e0130549_16116100.jpg例えば憲法とは何かということを考えることはひとつの端緒となる。憲法とは国家から我々を守る防塁である。この意味に於いて聖徳太子の十七条憲法が我々に於ける憲法のデッサンであるということは正しくない。立憲主義に於ける憲法は国家を名宛としている。憲法は国家に対して向けられたものであり、我々の生活信条といった性質のものではない。そして国家とは法の執行を通して浮かび上がる強制の機構である。その機構に統治されるときに我々は国民と呼ばれる。

このような自由主義者流の一連の考え方が反語的に示すものは、私達にとって国家とは本質的な存在ではなく、また国民であるということは本質的な属性ではないということである。私達にとって本質的な存在とは天皇であり、本質的な属性とは天皇の民であるということである。国家は国民間の権利調整のために運営されているシステムであり、それは天皇の民であるところの私達が形成している民族共同体とは全く異なる。このことは明らかに峻別されなければならない。

そしてこの峻別は「統治機関としての天皇」と「民族の神としての天皇」との峻別へと展開される。その上で私達の立ち位置は「国民/統治機関としての天皇」「天皇の民/民族の神としての天皇」と各々に対置され、従って私達から天皇に向けられたものが国民としての叫びであれば、天皇は統治機関として応えられるであろうし、天皇の民としての叫びであれば、天皇は民族の神として応えられるであろう。

二二六事件決起将校らの主張が国家運営に関する政治技術的なものではなく、国家運営の根源的な倫理に関するものである以上、彼らの立ち位置は公法的意味合いの国民を離れ、日本人の本質的な属性である天皇の民へと移行する。そしてその位置から発せられた主張であるために、その叫びは天皇の民としてのものである。しかるに史的事実として天皇はこれに統治機関として応じられている。

「陛下が 私共の挙を御きき遊ばして『日本もロシヤのようになりましたね』と云ふことを側近に云はれたとのことを耳にして 私は数日間 気が狂ひました(中略)天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ(二・二六事件獄中手記・遺書/磯部浅一・元一等主計大尉)」

私達の本質的属性が天皇の民であるのと同じに、天皇の本質的属性は民族の神としての天皇である。そのことが私達の日本文化としての行動原理の正統性を保障している。それはあたかも源氏物語を読む私達が、その作品からの照返しにより自らの歴史的連続性を確認するが如く、私達が天皇という鏡に顔を映し出すことにより、自らの歴史的連続性を確認することができる。そして鏡には映した者の顔が一点の曇りもなく正確に映し出されるはずだという確信が、即ち大御心と民心の同一性への確信となる。

しかし、あの雪の日。決起将校らがその鏡を取り出したとき、ほの暗き宮居の奥で眠り続けてきたその鏡を、今まさに民の窮乏を救わんとして取り出したとき、すでに鏡は割れていたのだ。彼らが如何に顔を映しても、そこにあるのはただ国賊という別人の顔であった。そして割れた鏡の事実が公にされたのは十年後の昭和二十一年一月一日、敗戦後間もない新聞紙上のことである。

by hishikai | 2008-02-26 16:06


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