2008年 03月 04日
竹生島
e0130549_1256750.jpg夏の一日、桃山の名残りを見ようと竹生島を訊ねたことがある。切立つ島影を琵琶湖の水面に映して悠々と浮かぶこの小島に上陸して散策すると、やがて宝厳寺唐門に出逢う。豊臣秀頼の命で豊国廟から移築されたと伝えられる唐門は華麗な彫物の上に丸みの強い屋根を乗せて、その豪奢を重みとして建物全体を深い緑の中に沈めている。

近くに寄って彫物に触れると、その彫り跡の粗いことが認められる。線も放埒で歪みが多く、シンメトリーな意匠も実際にはそうではない。子供っぽい楽観を危ういバランスで造形に引き留めて、それがために返って生命力溢れる表現となっている。

一体にこういうものは何であろうか。確かに言えることは、ここには万葉や古今の詩魂を意図的な渋味の内に再構築しようとする、人工と慇懃に満ちた京都的な古い教養がないということだ。例えばあの東山銀閣のような計算され尽くした渋味をここに見ることはない。この風通しの良い傍若無人は時代を築いた織田信長と豊臣秀吉の気風であろう。

歴史を顧みると京都的な古い教養に対して武士の採り得る態度は、平氏や足利氏のように迎合し同化してしまうか、木曽義仲のように煩悶の内に破滅するかの何れかであると思われるが、どちらを選ぶにせよ、彼らをしてそうさせるのは己を田舎者と認めるコンプレックスのゆえである。

しかし信長と秀吉にはそれがない。己の田舎者を恥じない人達である。創意工夫によって弱小な一族から身を興した彼らのような人間に、古代の詩魂を二番煎じにした無批判な記憶学問は馴染まない。そのような田舎者を恥じない気風が京都的な古い教養を無視して異形の花を咲かせた、その事態を指して桃山と呼ぶのだろう。

もっともその傍若無人が後の時代に受け継がれなかったことは、東照宮の媚びた表現を思い浮かべると明らかで、歴史の常とはいえ残念でならない。宝厳寺唐門の気風が信長と秀吉であるとして、東照宮陽明門の気風が徳川家康であるならば、あの現実主義者のねちっこい精神が、職人の感性を政治の道具として小さく抑え込んでいることは想像に難くない。

桃山の彫物は親方が大まかな意匠を描き、多くの弟子が手分けをして彫るのであろう。牡丹を彫り、唐獅子を彫り、杜若を彫り、水流を彫る。その際にはのびのびと、多少の歪みは気にかけずに、それよりも小さくせせっこましくならぬように、サッササッサと楽しげに彫ったのであろう。そういうことが四百年を経た今日でも見る者に伝わってくる。それが竹生島に遺る桃山である。

by hishikai | 2008-03-04 12:59 | 文化


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