2008年 03月 11日
文化の国境
e0130549_16543683.jpg誰か身近な人を掴まえて、君には「内面」や「個性」といったものが在るかと問えば、当然だ、在るに決まっていると不審な顔をされるのがおおよそ判り切った結末であるが、これが例えば源氏でも伊勢でも古今でも新古今でもよいのだが、ともかくも我国の古典というものを紐解いてみると、その物語や和歌の中に哲学的な意味で言われる「内面」や「個性」を発見することがないのである。

そういう当然の事実から導き出される「内面」や「個性」というものが私達日本人の元々の考え方にはなく、したがって「心理」などというものも私達日本人には元々ないというものの見方は、戦前と戦後を通じて何か賎しむべき、だらしのない、考えるも汚らわしい考え方であるとされてきたように思う。

例えば三島由紀夫のような人でさえも、その描く日本人はエーゲ海に輝くアポロン神像の如くで、哲学的な前提を持たない日本人などというものは端から想定されていないのであるし、萩原朔太郎や保田與重郎といった日本浪漫派系統の人々が和歌や俳句を論じるそのときにも、ゲーテの如き詩人の偉大な魂というものを、何としてでも我国の古典に発見せねば気が済まぬといった様子なのである。

また中村真一郎は、あの病的なまでに執拗なほど人物の内面に分け入って刻み込まれた野間宏の文章を、戦後の「新しい現実の表現」として喜んで支持したのだと述べており、新しい現実などというものが本当にあるのか甚だ疑問であるとしても、ともかくこのような評価には自分達にも哲学的な意味の「内面」や「個性」や「心理」がある、あるはずだという抜き難い思い込みが示唆されている。

そのような中で谷崎潤一郎ただ独りが、賎しむべき、だらしのない、考えるも汚らわしい日本人を意識的に、そして前向きに活写してきた人である。私はこの指摘を全面的に長谷川三千子女史に負っていることを先に告白してから言うのであるが、確かに『細雪』に表現される人物はその一切が世間である。世間を描くことが人を描くこととなっている。そして人が時の移ろいのなかで、自らもまた時となり移ろってゆく。当然の事ながら時の移ろいに「内面」や「個性」や「心理」などない。

そういう人間の姿を私達は見失っている。前述の中村真一郎は『細雪』を評して「この小説で主人公は内部から照明されないで、専ら外部から他の副人物の心理の働きからだけ、描き出される」としているが、これもそのような見失いの一例である。このような現象は、日本が後発国であった為で、致し方ない事とはいえ、自前の感じ方を排除することが即ち私達の近代精神だったという理由に根差している。詰まるところ、日本人は近代化の過程で文化の国境を見失ったということである。

by hishikai | 2008-03-11 17:11 | 文化


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