2008年 03月 13日
上海バンスキング論
e0130549_10461434.jpg『上海バンスキング』を忘れられない。最初に観てからもう二十数年が経つが、今も頭の中で「林檎の木の下で」や「上海リル」が流れ続けている。この作品を支えているものは、東洋が植民地から独立国家群へと移行する時間的混血の美しさと、様々な文化が混濁する植民都市上海の文化的混血の美しさという、二つの混血の美しさだ。

時間の混血は、自覚される滅びの美だ。前の時代の思想が否定され、善だったものが悪となり、悪だったものが善となる。平家物語と終戦後の教科書の黒塗りが良い例だろう。そういう価値の混乱の中で人が人に返って往く、一切のお仕着せを捨てて人間の有りのままへと視線を返す、そういう思考の向きにだけ至上の価値を見ようとする転落者の諦めだ。

文化の混血は、自覚されない滅びの美だ。和魂洋才なんていうが、あれはとんだ嘘っぱちで、機関車にだって何だって創った人や時代の精神が後ろにある。だけど植民地や後発国には、そんなことまで考える余裕がないから、何でもあるものを組み合わせて、それで一応の決着つける。だから物の精神が失われて使い方だけ達者になって、形の美しさだけが際立ってくる。

でもそれじゃあ人間あんまり口惜しいし、上っ面だけさらってるなんて思いたくないから、だから後発国は和魂洋才なんて自分を誤魔化して、植民地は一切なんにも見ないことにする。市川崑の映画に出てくるような、片田舎の湖畔に建つ洋風御殿、日本式大広間の天井に吊られたシャンデリア、日本間にペルシャ絨毯を敷いて洋風机と本棚をしつらえた書斎がそうだ。文化的な混血は形の美しさだけが立ちのぼる健忘症患者の見る夢だ。

そういう諦めと誤魔化しが絡み合って、飲んで歌って時々泣いて「いつか見たよな忘れた上海」になる。でもそれはどこかの御殿だと思って平家の墓前で琵琶を弾いた、あの耳無し芳一の幻と同じことで、本当のところを見ていない。ただ本当のところを見ていても見ていなくても、肝心なのは滅び逝く美しさで、それが王朝以来の日本人の感じ方だ。

だから『上海バンスキング』は日本人の琴線にだけ触れる作品で、多分西洋人はあれを評して、ノスタルジックとかセンチメンタルとか言うんじゃないかな。嗚呼美しい、とは言わないだろう。でもそれは作品の価値とは関係ない。あれは普遍的な価値を持った名作です、なんて言う方がよほど詐欺だ。普遍にも必ず言出屁がいて、それがどれだけ広まるかは喧嘩が強いか弱いかの問題なんだ。

だけどやっぱり『上海バンスキング』を日本近代化の事情から切り離して、エキゾティシズムや魔都上海への憧れなんて表面のところしか見ないのならば、それこそ諦めと誤魔化しの繰り返しだ。『上海バンスキング』を『戦後バンスキング』が評するようなものだ。どこかで定点を持たないと、結局全ては夢のまた夢。もし『上海バンスキング』がそんな安っぽいものならば、二十数年も呪縛されているのは口惜しいから、ちょっと理屈を付けようと生意気を書きました。

by hishikai | 2008-03-13 14:33 | 文化


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