2008年 03月 19日
国民という言葉がある。国会では議員が「国民は怒っている」とか「国民は求めている」と口角泡を飛ばし、テレビのコメンテーターも「国民は⋯」と力説する。その影響なのか、私達もご近所や居酒屋でそんな会話をする。国民は怒り、求めるのだ。しかし国民があたかも一個の人格であるかのようなこのイメージは事実に即しているのだろうか。 実は国民なるものは実在しない。国民は概念だ。その証拠に私達は市役所からは市民と呼ばれ、区役所からは区民と呼ばれ、村役場からは村民と呼ばれる。国民もそれらと同じで、一人何役もこなす名優の如き私達の役柄の一つに過ぎない。 社会もそうだ。社会は諸個人の活動をまとまりとして把握した概念であるのに、私達は何か地域的な共同体がそこに実在するかのように考えている。「社会全体の問題」などと言うとき、私達は頭の中で構築したモデルに過ぎないものを事実と取り違えているのだ。 こう考えると確かに実在しているのは個人だけなのかも知れない。ではその個人の集合体が、私達がよく使う意味の人格化された国民であろうか。それもちょっと違うようだ。私達が「国民は⋯」と発音したとき、もうそこには様々な事情を抱えて七転八倒するリアルな個人は抜け落ちている。 「国民が病気になった」と言わないのと同じように「国民が子供を捨てた」とは言わない。国民にはリアルな個人の苦しみはない。同じように「社会全体の問題」と言ったときにも、何か曖昧な結論が話の幕を引くことでリアルな個人が取り残されている。 私達は国民や社会というものが、本当は当事者の個人を除いた多数の傍観者であることを薄々知っている。にもかかわらず建て前として一体感を持った共同体がそこに実在するかのように言う。そういうとき、私達は辛辣な現実への緩衝材を求めているのか、あるいは冷たい嘘をついているのか、どちらにせよ、そういう考え方も言い方も誤魔化しに過ぎない。 しかしその結果、国民や社会が空疎なスローガンとなり、個人だけが現実の中を漂泊することとなれば、そこにある孤独は深い。だから私達は国民や社会という言葉で政治を語るのを、そういう緩衝材を思考の中に挟み込むことをやめてみることだ。実在するのは個人だけなんだと考えてみることだ。この世の俗事は大きなことも小さなことも、全ては個人が引き起こしている。そう考えるその頭のままで、政治や生活の事を考えてみる方が正直というものではないか。
by hishikai
| 2008-03-19 10:06
| 憲法・政治哲学
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