2008年 03月 28日
桜と女性は夢で見るのが良い。どうも現実の桜というものは何か恐ろしげで、ムンクやゴッホの絵のように精神がぐにゃりと曲がってゆくのを感じる。ただ一目なりと拝まないでは惜しいので、昨晩も桜の下のベンチに、うつむき加減で腰掛けて、ああ、西行の命日が過ぎていると、そのことばかり考えていた。 小林秀雄は西行を高く評価している。私は近代歌論の変遷なんて知らないので全くの印象で言うのだが、萩原朔太郎、保田與重郎、小林秀雄という日本浪漫派の系統の人は西行を詩人として高く評価する傾向があり、それが現在の西行評価の基底を成しているのではないかと思う。 例えば小林秀雄が『西行』で「心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕ぐれ」という西行の歌と「見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋のゆふぐれ」という定家の歌を比較した箇所にその発想の典型があるように思える。 定家の「見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋のゆふぐれ」となると、外見はどうあろうとも、もはや西行の詩境とは殆ど関係がない。新古今集で、この二つの歌が肩を並べているのを見ると、詩人の傍らで、美食家があゝでもないかうでもないと言っている様に見える。(西行/小林秀雄) 歌には「作品の心」と「作者の心」がある。定家はその歌の幽玄で美しいのに、実像は人間嫌いで出世欲が強かったらしい。しかしそれはそれ「作品の心」が良ければそれで良いというのが昔年の評価だった。ところが小林秀雄は「作品の心」と「作者の心」を同じ地平で見ようとする。 彼にとっては作品から透かし見える人間像が重要なのだ。そしてその人間像が作品にぴたりと重なった時に、それが生活者の歌となり、高い評価となる。しかしこの「作品の心」と「作者の心」を同じ地平で見ようとする批評方法は誰が最初に始めたのか、小林秀雄はまずここを語るべきであろう。 1187年、70才になった西行は自らの創作活動の集大成として二巻の自歌合を編み、伊勢神宮に奉納することを思い立つ。そして西行がその自歌合の判定を託したのが、当時26才の藤原定家である。幾度もの催促の後、ようやく届けられたその判定を西行は病床にあって、人に読ませて三度聞き、自らも二日がかりで読み通す。 西行は定家の判詞に言う。「作者の心深くなやませる所侍ればとかかれ候、かへすがへすおもしろき候ことかな(中略)これ新しく出で来候ぬる判の御詞にて候らめ」(贈定家卿文)それまでの和歌の批評が「作品の心」を問題としていたことは、上述した通りである。しかし定家は「作者の心」を問題として西行の歌を評価した。西行はこの批評方法をまったく新しいものと見た。そして深く感動した。 「作品の心」と「作者の心」を同じ地平で見ようとした最初の人は藤原定家だったのだ。そういう歌の批評方法があることを百も承知で、自身は美食家の歌を詠んだのだ。何も定家は狡猾な歌の学者であったわけでもなく、いけすかないテクニシャンであったわけでもない。定家は西行を、西行は定家を心から理解していたのだ。そして「願はくば 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と自らが詠んだ通り、西行は1190年2月16日、葛城山麓の草庵で息を引き取った。
by hishikai
| 2008-03-28 14:31
| 文学
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