2008年 04月 02日
文化を受入れるということ
e0130549_0133910.jpg私達は日本人なのだから、日本文化をどのように受入れるのか、などということを考えなければならないとすれば、それは実に馬鹿らしい話だ。しかし今は、その馬鹿らしい話を考えなければならない。戦前と戦後に分けられた価値観を持つ私達日本人にあるのは、そういう馬鹿らしい現状なのだ。

まず無事にすんだ 父はさういつたきりだった 楠公銅像の木型を見せよといふ 陛下の御言葉が伝へられて、美術学校は大騒ぎした。万端の仕度をととのへて 木型はほぐされ運搬され、二重橋内に組み立てられた。父はその主任である。陛下はつかつかと庭に出られ、木型のまわりをまはられた。かぶとの鍬形の剣の楔が一本、打ち忘れられてゐた為に、風のふくたび剣がゆれる。もしそれが落ちたら切腹と 父は決心してゐたとあとできいた。(後略)(高村光太郎/楠公銅像)

こういうものを読んで、まあ、昔はこんなもんだろ、今はちょっとね、などと考えたら、その瞬間あなたの脳みそに仕込まれた戦後という拒絶装置のスイッチが入ったと考えてよい。そしてそのようなあなたは日本文化を決して受入れることができない。

何故といって高村光太郎の父、つまり尊王精神旺盛な高村光雲には日本木彫の最高傑作『老猿』があり、一方であなたがそういう装置を脳みそに入れたままでは、その最高傑作を作者の精神と併せて受入れることができないからだ。それはあなたの日本文化の木彫部門に大きな欠落が出来ることを意味する。

それを補うには高村光雲の『老猿』を芸術作品とか美術作品として受入れるしかない。丁度、国立博物館の陳列棚にあるように、ただの一個の造形物として。だけどそれでは作品の半分だ。作品には時代の精神がある。それはボッティチェリもピカソも同じことだ。作品は造形と精神を併せて見なければ本当じゃない。

『老猿』を支えているのは明治の精神だ。それは内村鑑三が自らの墓碑に刻ませた「われは日本のため 日本は世界のため 世界はキリストのため すべては神のため」の如く、また或いは岡倉天心が世界に茶を知らせて東洋と西洋の融和を説いた如く、日本文化を世界文化たらしめんとした高い理想に満ちた精神だ。

それまでの日本木彫にはない、迫力ある写実を実現したいという高村光雲の気魄も同じ明治の精神だ。それが老猿の見開いた目、噛みしめた口元、荒々しい毛並みを形作っている。そのように作品には精神があり、精神には歴史がある。だから作品を受入れるためには、精神を受入れなければならず、精神を受入れるためには歴史を受入れなければならない。

そして歴史を受入れたその時に、私達は初めて先人の人生と出逢う。それはあたかも成長して初めて親の人生が分るように。そしてまた当然の事ながら、親が亡くなれば親の形見を愛するように、私達は文化を先人の形見として愛する。

また例えば仏像に手を合わせる時に、自分と同じようにかつて幾千万の人々が祈ってきただろうと考える。それと同じように全ての作品と遺物に先人の悲しみと喜びを感じ、そして私達も共に泣き、共に笑う。文化は全てそういうものだ。

by hishikai | 2008-04-02 00:35 | 文化


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