2008年 04月 10日
神田川を真直ぐに上汐の濃い緑色の水の面は、遠い明神の森に沈んだ夕日を受けて、今だに磨いた硝子板のように光っていたが、荷船や小舟の輻湊する川口から、正面に開ける大河の面は眺望の遠いだけに夕暮れの水はなお更きらきらと眼を射る。角度の正しい石垣の両側に痩せた柳の繁りが絶えず風にゆれていながら、如何にも懶く静かに見える。 岸に近い芸者屋の稽古三味線も今は途絶えた。あたりは一刻々々、雲の動くにつれて夕方ながらにかえって明くなり往来の人の顔や衣服の縞がはっきり見えるばかりか、雨に塵を洗われた後の町全体が如何にも清らかに落ち付いて心持ちよく見える。 湯帰りの女が化粧道具を手にして行交いざまに話して行く。その襟筋が驚くほど白く浮き上がっている。早くも蝙蝠が飛出したのを子供が素早く見付けて追掛けている。近くに絶えざる電車の響き。遠くに汽船の笛の音が長く尾を引いて消えたが、すると川口に大きな屋根を突出した亀清の二階で幾丁の三弦が一度に調子を合して響き出した。 雨に濡れたまままだ乾かない柳光亭の板塀の外には蹴込みに紅い毛皮を敷いた漆塗りの新しい人力車が二台ばかり置いてあった。裾模様の褄を取った芸者一人と、目覚めるばかりな友禅染めの振袖を着た半玉が、早足に柳の垂れた門口に這入って行く。それをば通りがかりのものが珍しそうに振返って見ていた。(牡丹の客/永井荷風) ここまで読んで本を閉じる。白い蛍光灯に冴え冴えとした都営地下鉄の車内。デニムにコサック兵のようなブーツを履いた赤いセーターの女が腕組みをして電車の揺れと同じに揺れている。向う側にはコナカか青山で買ったような細身のスーツを着た若い男が、流行りのとんがり靴を突出して中吊りの広告を見上げている。 新橋に着いた。永井荷風は判っていたんだ。現代人が自分の文章を読んでどう感じるかを。そうやっておいて、さあどっちが正しいと思うかね、とニヤニヤしながらこっちを見ている。文明批判といえば聞こえも良いが、本当のところは趣味の悪い拷問だ。 烏森口から外へ出ると日も暮れきって暗くなっている。雨が降ってる。ちぇ、まいったな、傘ないよ。「いかに好く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。此は年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである」(日和下駄/永井荷風)嗚呼、そうでした。
by hishikai
| 2008-04-10 03:46
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