2008年 05月 13日
奈良
e0130549_0444054.jpg幼い頃、母とよく奈良へ行った。宿は奈良ホテルと決まっている。母はどんな姿であったろうか、青い交織りのツーピースを着ていた事はぼんやりと覚えているが、あとは思い出せない。私はといえばジャケットに半ズボン、革靴を履き帽子をかぶっていた。

奈良ホテルは明治42年創業の総檜御殿造り。玄関ホールの正面に赤い絨毯敷きの階段がある。左はメインダイニングへ続き、右は娯楽室へ続く廊下。正面の階段を上がると二階もやはり赤い絨毯敷きで、古くて軋む廊下が左右へと長く延びている。その廊下を左へ曲がり、右へ曲がり、左へ曲がるといつもの部屋に着く。

高い天井、ほの赤い照明、白い壁のクロース、金色のドアノブ、マントルピース。窓の外には興福寺の塔が黒くそびえる。ホテルの部屋は廊下を挟んで奈良町側にもあるが、母は必ず興福寺の見える北側の部屋を予約する。右手に若草山が控えて、寒い日には山越えの風花が塔へ吹きつける。

冬に東大寺の椿が落ち、早春に新薬師寺の連翹が目に滲みる。初夏に春日大社の藤が揺れ、夏に南円堂の百日紅が蝉の声に佇み、秋に白毫寺の萩が石段に花を散らす。馬酔木の森を抜けて志賀直哉の旧居に感心し、道の傍の敷島パンの看板を珍しい気持で眺める。

夕食はメインダイニングで古風に折上げた格天井の下。白と緑のテーブルクロス。メニューは思い出せない。私はデザートに出されるウエハースの一枚添えてある白いバニラアイスが好きだ。よく冷えた小さな銀の器に水滴が付いて朧なダイニングの灯りに輝く。夜中の寝室は静かで、興福寺の塔もすっかり闇に溶ける。

朝食はフレンチトーストにオレンジジュース。その後は大きな時計のある娯楽室で駒を並べて独り将棋。午前中はティーラウンジの紅茶とケーキでお喋りをする。二人の旅行はこの繰り返し。飽きもせず倦みもせず。「あなた一人で泊りなさい」と母が言い、私は「いやだ」と言う。自分の勇気の無さを恥じた。

母が亡くなってもうすぐ三十年。あれから私は学校を辞め、土方をし、水商売をし、工員をした。もうメインダイニングでの食事の速度では許されなかったが、それもすぐに慣れた。色々の事を覚えて色々な事を忘れた。それでも時々奈良を懐かしく思い出す。「あなた一人で泊りなさい」これはまだ実現しない。

by hishikai | 2008-05-13 01:05 | 文化


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