2008年 06月 05日
『YASUKUNI』
e0130549_3331365.jpg映画『YASUKUNI』を観た。本作品の上映は中国人の李監督から日本人へ、取分け靖国神社に肯定的な人々との歴史認識のギャップに対する問いかけである。ナレーションが無く沈黙の多い作品で一見して意図が掴みづらいが、製作者が自らの仮説を作品に託して、これを上映することで問いを発していると考えて良いと思う。

ではこの仮説の構造はどうなっているのか。まず日本軍によるアジア諸国への侵略があり、この中に数々の蛮行がある。この蛮行を無感覚に、時に誇らしげに行なわせしめた思想的背景に、自ら死と隣合せであるばかりか、他者にも死と隣合せであることを強要する日本軍国主義があり、その精神的な核として武士道がある。靖国刀として登場する日本刀は武士道を象徴している。そして靖国神社は現在に至るまでノスタルジックに軍国主義を擁護する揺籃であり、示威的な行為によって他者を排除する舞台である。

私は李監督の仮説を以上のように解釈した上で、これは肝心のところで誤りであると言いたい。武士道は軍国主義の精神的な核ではない。武士道を構成する心的要素は、自負、責任、不抜である。このうち不抜が最も特徴的で、かつての武士はこれにより自己の倫理と組織の倫理を区別したのだ。

これはたとえ主君の命令であろうとも自己の倫理の変節を拒否し、却って諌言諌死しようとする心性である。「奉公人の打留めは浪人切腹に極まりたる」と葉隠に謂うが、このエゴイスティックなまでの頑なさが本来の武士道の大きな特徴で、儒教倫理の影響が濃い江戸中期以降の組織適応型の武士道は、正確には士道という。

対して日本の軍国主義は近代の産物である。社会を人智により設計しようとする社会主義的な革新官僚と、高度国防国家に傾倒する統制派将校の思惑が一致したところに現出したファシズムで、1937年以降に確立された社会体制を指す。これが士道の流れを汲む明治武士道の衣を着ているので見分けづらいのだ。

李監督の仮説はアメリカ軍が占領政策として行なった剣劇や剣道の禁止と同じ視点で構築されている。戦後60年以上が経過し、李監督も日本に住んで長いと聞くが、なぜこのような見方しか出てこないのであろうか。なぜ日本社会を普通に見渡すことよりも、迷信染みた思い込みを優先させようとするのであろうか。今更グロテスクに過ぎないか。

もっともこの作品には私たちの戒めとなるべき映像も多く収められている。ここに映し出される排他的な言動の数々に「よもの海 みなはらからと思ふ世に」と詠まれた明治天皇の大御心を重ねてみるとき、先の大戦の怨讐や周辺国の中傷への反発を契機とした愛国心が、日本近代を生きてきた人々の理想にどこまで沿うことができるのかということを、あらためて考え直してみる切っ掛けとすることができる。その意味で、この『YASUKUNI』は多くの日本人に観てもらいたい作品のひとつである。

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by hishikai | 2008-06-05 04:08 | 文化


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