2008年 07月 05日
国宝薬師寺展
e0130549_1638189.jpg人と佛は生活で結びついてゐるのである。美術や国宝として存在する以前に、人と生活に結びついてゐた佛を、観光の見世ものとする俗化の張本人はどこにゐたのであらうか。文化とか芸術とかといふ名称をつけることなど問題でない、箱づめにされて博物館へ送られる佛がいたはしいと泣き、あとでそのためのたゝりに恐れたやうな気風も、宮座のさかんな土地には、なほほんの少しだが、心のかげりをなすほどには残ってゐるのである。(奈良てびき/保田與重郎)

上野の国立博物館で開催されていた「国宝薬師寺展」が先月終了した。これは平城遷都一千三百年を記念して開かれた特別展で奈良薬師寺金堂の日光・月光菩薩立像の国宝二体を初めて寺外に公開することをみどころとして、聖観音菩薩立像、慈恩大師像、吉祥天像など仏像絵画の至宝を揃えて70万人もの入場者を集めた。

私とて普段はどこそこの博物館で何々の特別展をやっていると聞けば飛んで行って、芋洗いの芋の一個となり切ってこれを眺めている手合いであるから偉そうなことは言えないが、今回に限っては、いたわしい気がしてならず、終に行かなかった。

両菩薩の側面や背面を常になく見ることができるというのが本展の呼びものとして盛んに宣伝されていたが、こういったことがどれほどの意味を持つのかを、あるいは尻から佛を拝むものがあるだろうかということを、企画する側も見に行く側も今いちど反省という気持の方向から考えてみてはどうだろう。

また一千三百年もの長い間に薬師如来の脇侍として立った両菩薩をただそれだけで展示室に据えるという精神の不均衡はどうであろう。私達はいつの時にそのような資格を得たのだろう。薬師三尊に額ずいて病気平癒を祈った人の歴史を分解してこれを見せる資格を私達はいつの時に得たのだろう。

古い日本の佛が人々を無心や浄土へと導く代わりに、数え切れないほどの辛い記憶を我身に引受けながら微笑されてきたのだとすれば、そこには数え切れないほどの佛の恩に与っている私達の姿があるはずである。だから私達が佛に接するときにボッティチェリやロダンの芸術と同じような態度を持ってするのならば、それはどうしてもすまないことのように思える。

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by hishikai | 2008-07-05 16:43 | 文化


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