2008年 08月 01日
民主主義懐疑論
e0130549_12322938.jpg民主主義と言うとき戦後日本ではその言葉を「この上もなく善なもの」というイメージで使用する場合が多いようだ。生活の中の些細な決定事項にも民主的という言葉は散見される。しかし本当のところ民主主義とは何なのだろうか。

民主主義というのだから、国民が国家の主(あるじ)と考える統治理念なのだろう。では何をもって国民が主なのかといえば、それは主権を持っているからだろう。では主権とは何かといえば国家に於ける統治の在り方を最終的に決定する権限なのだろう。それなら国民である私は主権者で、同時にあなたも主権者だ。

だけどテレビの国会中継で「国民は○○を望んでいる」などという発言を聞くと「いや〜、私という主権者は××を望んでいるんだけどな」と思ってしまう。何しろ私は国家に於ける統治の在り方を最終的に決定する権限を有しているのだ。勿論あなたも国家に於ける統治の在り方を最終的に決定する権限を有している。

いやいや、それは選挙で総体の意思として決められたのだから、選挙で負けた方は我慢をしなければいけないのです、という人があるかも知れない。しかし何しろ主権なのだ、そう簡単に没にしていいのか。総体の意思といったって所詮は多数者の意思じゃないか。多数者の主権と少数者の主権に効力の差があるのか。第一選挙権のない子供だって国民で主権者なのだ、この意思はどうするのだ。

要するに国民は実在しないのだ。実在しないものに主権を付与できるはずがない。ここがまずトリックだ。それに主権の行使は選挙によって行われるのではない。それは参政権の問題で、民主主義からではなく民主制から語られるべきことだ。ここもトリックだ。それに天皇陛下はどうするのだ。私達が主人ならば、天皇陛下はお客様なのか。ここもやはりトリックだ。そこで私はこう考える。

主権の意味する統治の在り方を最終的に決定する権限とは憲法制定権力のことだ。国制の根本である憲法を、その根本的性格から改変することができる権限のことなのだ。そしてこの実定法を超越する至上の権限を人民に与えることにより、いつでも体制変革の余地を残しておこうとする理念が民主主義なのだ。また法が歴史的慣習である場合、人が法に優位することで、現在の理性が過去の慣習に優位すると主張するのが民主主義の心理なのだ。だから天皇と民主主義は矛盾するのだ。

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by hishikai | 2008-08-01 13:05 | 憲法・政治哲学


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