2008年 08月 02日
かつて主権とは中世ヨーロッパの重層的な統治形態の中で、優越的な支配権およびその地位を指す言葉だった。英国に於ける主権の所在はどこかという問いへの答にみられる「議会主権」の用法がこれにあたる。 その後、国王が封建諸侯の有する支配権を統合し、加えて法王からの独立を獲得したことで絶対国家が成立する。ここに主権は国王の絶対権となって登場する。J・ボダンは言う。「国内の全ての権力は王からの派生物に過ぎない」と。この絶対性は歴史的慣習ではない。それ自体が因子となった絶対性である。 例えば私達が普通に考える、親孝行は善で親不孝は悪だと言うときの善悪は歴史的慣習で、国王の登場以前から前以て存在する善悪である。しかし絶対国家に於いては主権者の決断によって善悪が決定されるのであって、前以て存在する善悪を主権者が実現するのではない。これが君主主権の論理である。 この君主主権をフランス革命が打倒した。このとき君主という人格が有する絶対の主権を、国民という人格化された擬制へと移植したのが国民主権である。ここで問題となったのは、主権により国家の根本構造を決定する憲法制定権力が、憲法制定後にはどの程度までの効力を有するのかということである。つまり国家の根本構造は人民によっていつでも改変可能なのか否かである。 そしてこの問題は最も過激に論じられたときにこう主張された。「憲法制定権力とは実体的にも手続的にも法的制約に服さず、至上最高のものであり、いつでも発動して実定憲法をいかようにも変えることができる」これは歴史的慣習よりも一時的な人間理性を重んずる態度であり、一方でいつでも革命状態を回復しようとする態度である。そしてこの指向は国民主権が革命の産物である限り、常に民主主義の内部に蔵されているのである。 絶対国家から国民国家への歴史は、一面で主権をめぐる争奪の歴史である。しかしこのような超越的な主権概念が国家統治にとって、本当に必要不可欠なのであろうか。私はこの点に不賛成である。民主主義を実現しなければファシズムへ転落すると論ずるデモクラットは多い。しかしそのように主張する心性こそが民主主義の本質なのである。それは民主主義を手続としての民主制に停めるに満足しない、それ以上の崇高な理念として保持したいという衝動である。なぜならば国民主権を根本教義とする民主主義が、常に絶対国家を打倒した記憶を引き摺っているからであり、その国王の首級である主権が常に革命の血を流し続けているからである。
by hishikai
| 2008-08-02 11:33
| 憲法・政治哲学
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