2008年 08月 23日
野村源左衛門は小城の家中でもひときわ器量の優れた男である。芸能を始め、何をやっても人に劣ったことはない。中でも博奕は西目地方で随一といわれた。以前、他国へ行って博奕を打ったことが目付に知れたときも、藩主の鍋島紀伊守元茂公は源左衛門の器量を惜しみ、しばらく側役にお使いになったほどである。 だがその後、源左衛門は往来札を手に入れて長崎へ行き、再び博奕を打っておびただしい金銀を手に入れ、屋敷を買い求め、度々丸山の廓に遊んだ。このことが聞こえたので源左衛門は小城に呼び戻され、藩の掟に背いた廉で切腹を申し付けられた。 当日、源左衛門は介錯人を睨みつけて言う。「存分に腹を切り回し、十分にしすまし、『首を打て』と声をかけてから斬れ。もしも声をかけないうちに斬ったりすると、その方の七代までも呪い殺してくれるぞ」。介錯人は答えて言う。「安心せよ。その方の思うままに切らせる」 さて源左衛門は、腹を木綿でしっかりと巻き一呼吸する。やがて手にした刀を腹に深々と突き立てると一気に十文字にかき切る。はらわたが前に出て顔色が青ざめる。しばらく眼をつぶった後、小さな鏡を取出し自分の顔をながめて、紙と硯をくれと言う。 「もうよいのではないか」介錯人がそう言うと、源左衛門はかっと眼を見開き「いやいや、まだしまわぬ」と言って受取った紙に 腰ぬけと 言うた伯父(おんじ)め くそくらへ 死んだる跡で思ひしるべし と書いて家来に渡し「これを伯父に見せてやれ」と言うと「さあ、よいぞ」と声をかけ、首を打たせた。 ─『葉隠』第八巻より現代語訳にて抜粋─ (補注)野村源左衛門は杵島郡左留志の城主前田伊予守定家五代目の子孫。定家の我がままな振舞いが鍋島真茂の怒りに触れた為、子孫兄弟全てが野村姓を名乗る。源左衛門は定家の次男野村甚右衛門の曾孫であったが、この一件があって子孫は断絶した。
by hishikai
| 2008-08-23 12:04
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