2008年 09月 01日
『クロオデルの「能」』より
e0130549_1494870.jpg「一瞬引っ込んでいたシテが再び現われる。彼は死から、粗描から、忘却から出てくるのである。彼は着附を換え、ときには変形する。いまや全場面は彼のものである。彼はその魔法の扇でもって現在を蒸気のように追い払い、そしてその不思議な衣のゆるやかな風でもって、もはや存在しておらぬものに、彼のまわりに浮び上がるように命令する。(中略)シテは左右に走り、確かめ、証明し、展開させ、又所作する。そして姿勢と方向との変化によって、夢幻劇のすべての推移を示す。驚くべき逆説によって、それはもはや演者の内部にある感情ではなくして、演者が感情の内部に入ってしまっているのである⋯」(クロオデルの「能」/堀辰雄)

この文章は近代的な審美眼と言葉遣いによって、能を鑑賞したときに自然と脳裏を過る、微かな衣擦れの音や装束の輝き、悲運の貴公子や敗将から燻り立つ古く奥床しい香の薫りを、具体的で露骨な美意識へと変換していて、あたかも近代に死んだ者の亡霊が何かを訴えようと立ち現われた様子を描いているかのようである。

だが平家が壇ノ浦に滅んだのが寿永四年の事であるから、観阿弥や世阿弥の作劇は自らに先立つ事およそ二百年前に死んだ人々の執心を舞台に呼んでいたので、古い時代の時の流れを勘案するならば、現体制に在らざる者達を呼んだ観阿弥や世阿弥の実感は私達の想像以上にこの文章に近く、具体的で露骨なものであったに違いない。

そうだとすれば三島由紀夫が『憂国』や『英霊の聲』で示した政治的刺激と、いまだ墓から暴き出すには早過ぎる禁忌を犯す生々しさは、能という芸能が既に六百年以前から「現在を蒸気のように追い払い⋯もはや存在しておらぬものに⋯命令する」という異常な方法を駆使して演じられていたものである。

ならばこそ能楽が真に臨場感を放つのは、先の大戦で亡くなった人々や、それに先立って逝った昭和維新の人々の、彼らが死の栄光の裡に閉込めた詩の美しさが、あたかも忠度が自詠歌の「読み人知らず」となった故に亡霊となった如くに、風雅の執心を伴って現代の舞台に呼び戻される時であるということは自明である。

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by hishikai | 2008-09-01 14:25 | 文化


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