2008年 09月 09日
麻生太郎氏の著書『自由と繁栄の弧』には自身が2006年1月の国会演説で「我国には伝えるべき信条がありますが、それは言葉となって初めて信条と見なされるものです」と話したことが紹介されている。だが言葉が無ければ信条が存在しないという麻生氏の考え方は、不言実行を美徳とした我国の言語風土に照らして異色である。 加藤典洋氏は著書『日本の無思想』で、この点を次のように述べている。「もし、これ(言葉を含めた人間の行為)を思想表現だと考えるような視線がなかったら、そもそものところ、思想などというものは存在できない、ということです。思想だけではありません。あの信仰も、信念も、存在できないのです」 養老孟司氏は著書『無思想の発見』でこの考え方を取上げてこう述べている。「こういう人(加藤典洋氏)に、あるいはこういう信念に対抗しようと思えば、言葉にすることができることは、おそらく一つしかない。その答が『俺には思想なんかない』という言葉なのである。さもなければ、ひたすら黙るしかない」 佐藤弘夫氏は著書『神国日本』で「ひたすら黙る」態度は、古代日本人が大陸の整然とした論理に遭遇したとき、これに沈黙で対抗した記憶の名残りだと言う。だが黙っていては生活ができないのだから「ひたすら黙る」とは単なる沈黙ではなく、言葉で探り当てなくとも既に存在が確認されている事柄に限って発語することを指す。 小林秀雄氏は著書『Xへの手紙』で「2×2=4か、それとも文体の問題かどちらかに帰着する」と述べた。それがここに関係する。丸山真男氏は言う。「一方の極には否定すべからざる自然科学の領域と、他方の極には感覚的に触れられる狭い日常的現実と、この両極だけが確実な世界として残される」 これが現代で算盤帳簿の数字と近所の動向を証拠として世界を語る態度となる。それが本来公的な使命を負った国政に、個々人の生活保障を票と引換えに強要し、そのことの正否で政権の浮沈が決する現代日本の政治万能主義を生んでいる。それがいわゆる「国民目線の政治」と呼ばれているものの中身だ。 もし麻生太郎氏が次期総理に就任されるのであれば、願わくばこの世相に迎合することなく、信条の証しとしての言葉を使用し、既に存在が確認された陳腐な数字や垢にまみれた生活の言葉を使用せず、本当に言うべき事を、内面から真直ぐに紡ぎ出して頂きたい。
by hishikai
| 2008-09-09 17:19
| 憲法・政治哲学
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