2008年 09月 12日
小沢一郎の政治哲学
e0130549_1364991.jpg私達日本人は1945年から1960年代まで敗戦を教訓として生きた。内政では大政翼賛政治への後悔から、選ばれざる指導者の暴走を抑えるべく、民主主義と国民の政治参加に普遍の政治原理の希望を託し、国際関係では第二次世界大戦の惨禍から、国家主権の暴走を抑えるべく国連に世界政府の希望を託した。

しかしその後の1970年代から2008年までは現実を教訓として生きた。内政ではグローバリゼーションの姿がはっきりと浮び上がってくる過程から、一国の政治は経済よりも小さいことを知り、国際関係では冷戦の終結による民族紛争と宗教紛争の頻発から、暴力の淵源は国家主権ではなく人間の情念であることを知った。

かように私達は経験に翻弄されて生きた。時代の中心課題を満たすべく様々な政治哲学が考えられたが、経験がそれらを次々に書き換えていった。確かにそれらは今でも本棚の奥から貴重な示唆を私達に与える。それでも時間が止まらない限り政治哲学に古いと新しいはある。

その意味で小沢一郎の政治哲学は古い。民主主義と国民の政治参加は人間の合理性への夢だったが、経済という人間の不合理性の渦がこれを超えたとき、合理性への夢は終わった。世界政府は人間の理性への夢だったが、民族や宗教という人間の情念がこれを超えたとき、理性への夢は終わった。

小沢一郎は言う。「政治の目的はみんなを幸福にすることだ」と。しかし「用意した幸福」を与えようとする合理性は「各人なりの幸福」という不合理性を想像しない。小沢一郎はまた言う。「国連の常備軍を日本が提供すべきだ」と。しかし世界政府という理性は、民族や宗教のために死にたいという情念を想像しない。

国連から国家、国家から個人と、全体から個別を語る政治家にとって、個人は親鳥の餌を待つ同じ顔の雛鳥でしかない。だがそれは人間の本性から目を逸らした夢だ。不合理性や情念がどんなに道徳に違反していようとも、それらを引きずり出して叩き直すことなど出来ないという、ここ30年の経験を彼は視ていない。

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by hishikai | 2008-09-12 13:09 | 憲法・政治哲学


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